第2話 ラザロの墓穴・2

文字数 2,993文字

「捨丸 ! 何をちんたらしているんだ。兄様が大変なことになってるぞ ! 」
 4つの幼い捨丸はもともと歩くのが遅い。
 そのうえ途中幼馴染の女の子「ふみ」とのんびりと笑いながら歩いていたので、やっと家に付いたとたん、後ろから走ってきた兄の友人にどやされた。
 友人は長屋に飛び込むと、捨丸たちの母親や父親、近隣の大人たちに大声で訴えた。
 捨丸がゆっくり歩いて戻る間に兄の登米丸の様子が急変していたのだ。
 長屋から下男や隣近所の男たちがわらわらと走り出て、やがて泣きわめく捨丸の待つ家に、男たちに背負われ兄が運ばれてきた。
 ありあわせの布で巻いた噛み傷からたらたらと血が流れて、おんぶした下男の着物を汚していた。
 はじめポチりとした針孔のようだった噛み傷が、赤紫色に腫れ、周りの皮膚を盛り上げて膨れ上がっている。
 さっき別れたときの余裕はどこにもなく、兄は激しい痛みで犬のようなうなり声を上げていた。
 マムシの毒は出血性の毒である。血液中の赤血球や血管壁を破壊し、患部から内出血を起こしながら全身に回っていく。
 始めは全く症状が出ず、たかをくくって放置しておくと20分~30分後に突然劇的な症状が現れるのだ。
 まだ体の小さな子供の登米丸は、症状が一層顕著だった。
 母は気丈に我が子を布団に寝かせ、つきっきりで看ていた。
 とはいえ血清などない時代である。噛まれて注入された毒の量が多ければ、手の施しようはない。
 医者や長屋の近所の女たちや男たち。そして心配そうに覗く兄の友人の子供たち。
 大勢の人が出入りする粗末な家の片隅で、捨丸はガタガタ震えて泣いていた。
 小さな彼には迫りくる兄の不幸しかわからなかったし、家中の目が苦痛にうめき蛇毒と戦う兄に向いていた。
 捨丸はてんてこ舞いする家中の誰からも注意を向けられず、ただ座っておびえていた。
 一度だけ母に訴えた。
「お母様、おなかがすいた」
 我が子心配のあまり半狂乱になっていた母は、鬼女のような表情を次男に向けた。
「腹がへった? 我慢しなさい。兄者が今大変なのです」
 そして一言ぽつりと漏らした。
「お前がもっと早く様子を知らせに戻ってきたなら、こんなには……」
 捨丸はそれを聞いて雷に打たれたように固まった。
 空腹も恐怖も一瞬にして自分の中から飛び去った。
 自分のせいだ。一番可愛がってくれる兄がこんな風に苦しむのは自分のせいなんだ。
 両親の目が兄だけに向いていることは弟の捨丸も自覚はしていた。
 その兄の命を危険にさらしたのは自分だ。
 捨丸は衝撃のあまり涙も引き、動けないでいた。

「捨丸ぼっちゃん、こちらへいらっしいませ」
 放置されている幼児を見かねた下女が捨丸を抱き上げて、さらに下手にある兄弟の乳母の住まいに連れて行った。
 粗末な新野の足軽長屋よりさらにみすぼらしい長屋住まいの乳母は、ちょうど自分も子を産み大変な時期だったが、新野の家の騒ぎを知り、捨丸に雑穀の粥とありあわせの夕餉を食べさせてくれた。
 まだ若い乳母は、しきりと可哀想にと捨丸を抱き上げてくれたが、彼は一言も発しなかった。
 ささやかな夕餉をいただくと、ペコリと挨拶をして自分の長屋へ歩いて帰って行った。
 捨丸がいない間、兄の容体はますます悪化していた。
 噛まれた傷口は周囲、手首から肘まで腫れあがり、ぐちゅぐちゅとした細かい水泡がたくさんできていた。
 出血性の毒は血管を破壊しながら内臓に回り、水を飲んでも喉から出血するほどだった。
 口の中も腫れあがり、、母が粥や重湯を食べさせようとしても荒れて内出血した口の中にしみ、飲み込めない。
 兄の体力はみるみる衰えてきた。
 体温は下がり、腫れた手以外はどこを触っても氷のように冷たく、皮下出血の紫斑が全身に広がってきた。
 医者は、おそらく今日の夜中までは持たないだろうと宣言して帰って行った。
 母は泣き父は怒り、誰も小さな弟が心を凍らせていることなど気が付かなかった。
 一人床に在る兄以外は。
 兄は驚異的な生命力を見せた。
 無理だと言われた夜を乗り切り、次の日も意識を失うことなく苦痛に耐え続けた。
 水も飲めないので、湿した和紙で、からからに乾いてひび割れた唇の間から水を少しずつ吸い取らせた。
 だが次第に内出血の個所は増えていった。
 歯茎や唇、鼻からの出血が始まり、貧血で瞼の裏は白くなった。
 母と父はほとんど寝ずに看病をした。
 体温はさらに低下したが、兄は意識はしっかりしていた。
 寒さで震える体を布団でくるまれ、母や父、家族や使用人たちの気を一手に引いていた。
 捨丸は相変わらず戸口の土間の隅っこに捨て置かれたまま、たまに気が付いたものが水や粥の残り、汁物を飲ませてやるという状態だった。

 二日目が暮れ、兄がマムシに噛まれて三日目の早朝。
 誰からも捨て置かれている捨丸は、体も拭いてもらえずぼさぼさの髪に垢じみてきた着物を着たまま、板の間の隅で眠っていた。
「捨、お捨。こっちにおいで」
 兄に呼ばれた気がして、捨丸は汚れた顔を挙げた。
「誰、兄様?」
「そうだよ。おいで」
 布団の中で、青白い小さくなってしまった顔を向けているのは間違いなく兄の登米丸だ。
 二日間苦しみ抜いているというのに、今すっきりとした穏やかな顔で、部屋の隅に転がる捨丸を見つめている。
 父と母は二日間の寝ずの看病の疲れが出たのか、兄の布団の周りに倒れこんで眠っている。
 捨丸は兄のそばに寄った。
「父上も母上にもすっかりご迷惑をかけてしまった。許してくれるだろうか」
「許してくれる。兄上は良い子だから」
 捨丸は固い口調で返した。自分にはないものばかりを持っている兄。きちんと自分を見ていてくれる兄。
 そして自分は兄といろんなものを見たくて、しっかりものの兄についていけば、そっくりになれると思っていた。
 兄になりたかった。
「捨丸、いいかい。よくお聞き」
 兄がこんなによどみなくしゃべるというのは不思議なことだ。
 喉と口からの出血と腫れで、言葉を発するのも大儀だったはずだ。
「捨丸、もういいよ。俺のあとをついてこなくてもいいよ」
「なんで?捨は兄様と一緒に居たい」
「お捨はこれから自分の足で歩いて、自分に素直に生きなさい。兄はもう大丈夫だから」
「本当?」
「本当だ」
 ああ、兄は元気になるんだ。そして自分をちゃんと一人前に見てくれる。
 捨丸はにっこり笑った。

 気が付くと、部屋の中を大勢の人たちが行き交っていた。
 母は泣き、父も震えながら涙を流していた。
「捨丸様、兄上様が死んだのです」
 誰かが捨丸を起こしながら、そういった。
 捨丸の心にごうっと嵐が吹いた。
 嘘だ。兄上とさっきまで普通にお話していたではないか。
 兄様は穏やかな顔で、優しくはっきりと言葉をかけてくれた。
 お顔だってすっきりときれいだった。
 下男が連れて行ってくれた兄の枕元、白い布をかけられる前の兄の顔は、赤黒く変色していた。
 うっすら開いた瞼も腫れあがり、隙間からのぞく白目は内出血で真っ赤になっていた。

 兄は死んだのだ。
 最後に自分に言葉を残して。

 この瞬間、捨丸は次男でありながら新野家の跡取りとなった。
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