第42話 一粒の麦・2

文字数 3,903文字

 尚次郎が寒さに震えながら帰宅したのは、妻が出奔して間もなくだった。
 吹雪に白く煙る屋敷の前で、使用人たちが門の外に出て、ああでもないこうでもないと叫びあっているのが見えた。
 耳が切れそうな程痛い雪混じりの風に首をすくめながら、尚次郎は声をかけた。

「どうしたのだ」

 使用人たちは困り切った表情で平伏した。

「申し訳ありません旦那様 ! 奥様が急に家を飛び出して」
「こんな天気に?」
「はい。お一人で風のように走って行ってしまわれたのです。綿入れを羽織っていらっしゃるとはいえ、たったお一人で」

 はながちょこちょこと走ってきて叫んだ。

「奥様は刑場に向かわれたんです」
「刑場へ? 何をしに。あそこはもうとうに雪で閉ざされているぞ」
「きっと……前の旦那様のお首を探しに。先程獣を売りに来たマタギが、晒されていた首がまとめて埋葬されると言っていました」

 尚次郎は心の中で舌打ちした。
 ようやく少し落ち着いてきたというのに、不用意者が妻の心を乱れさせるような言葉を耳に入れたのだ。
 でもこうしてはいられない。
 冬の日が落ちるのは早く、もう午後の日が傾きだしているし、西の山には雪雲が低く垂れこめている。
 あの雲がもっと降りてきたら、今吹きつけている地吹雪に加えて大粒の雪が降りだすだろう。
 尚次郎は召使たちに指示を出し、北山原までの道をくまなく探すように命令し、自分も松明を持って雪の街に駆け出した。

 おてんばでへそ曲がりのふみの事だ。
 真っ直ぐに街中の道など行くまい。もっと人目に着かない道を探して、野原を横断する進路をとるはずだ。
 尚次郎は最上川の土手の脇、職人町のはずれの、人気のない雪の野原に踏み出すことにした。
 急がないと日が暮れる。
 雪はどんどん降り積もり、踏み出した尚次郎の膝より上まで届く。
 その新雪をかき分けながら進む姿は、まるで荒れた海を泳いでいるようだ。
 女性にしては背が高いとしても、ふみなどは腰まで雪に埋もれてしまう、そんな積雪の原野だ。
 尚次郎は冷たさで足腰の感覚がマヒしてきた。
 相変わらず風は強く、霰か雪粒か既にわからないが、ぴしぴしと傘の下の顔面に叩き付けてくる。
 民家は既になく灯りも見えない。
 視界の端には一面の白い世界の中、ところどころ骸骨のように枝を伸ばす、痩せた針葉樹が黒い姿をさらしている。
 ふみは本当に居るのだろうか。
 街の北のはずれを目指して、今も雪の中でもがいているのだろうか。
 だとしたら、少しでも風雪を避けて進むのではないだろうか。
 尚次郎は全くの勘で、土手の風よけの松の木立を目指した。
 経験上その松並木を辿って行けば、刑場よりそう遠くない場所に出る。
 後から後から新たに積もっていく雪を蹴散らしながら、吹雪に顔を打たれつつ四方に目を走らせ、尚次郎は進んだ。

 並木に沿って大分進んだ所に、雪の中に赤い色が見えた。
 道端の大きな地蔵の前掛けかと思ったが、それにしては姿が小さい。
 そして今にも白い雪の中に封じ込められそうだ。

「ふみ !」

 尚次郎は叫んだ。
 あれはふみの、防寒用の紅い綿入れに違いない。
 色白の妻によく似合うと前夫の西堀がほめていたので、ふみがひどく気に入っていたものだ。
 ふみは松の木の大きな幹に寄り添うように、身体をもたれかけていた。
 風よけのつもりだろうか、幹と雪の壁のわずかな隙間に体を入り込ませ、辛うじて埋められないで済んでいる。

「ふみ、なんて無茶な」

 妻の体を抱きとめると、全身つららのように冷たかった。
 顔は青白く、唇も爪も真っ白で血の気がない。
 手先も白く蝋細工のようで、血が全く通っていないように見える。
 黒い髪が雪にまみれて、ところどころ凍ったまま顔に貼り付いていた。
 草鞋が脱げて小さな足が紫色に変色している。
 尚次郎は自分の寒さも忘れて妻を抱き上げ、しっかりと肩にもたれさせた。
 どこか雪を逃れるところを探さねば。
 日はどんどん暮れていく。
 まだほんの少し残っているが完全に落ちてしまったら、この辺りは一面、死の気配漂う氷の世界に代わる。
 尚次郎は思い出した。土手の堤の近くに、原方衆の農具の掘立小屋があった。
 冬の鴨や山鳥を撃つ狩人や、道に迷ったものが逃げ込む小屋だ。
 日が暮れて辺りが暗黒になる前に、小屋か見えているうちに、その中に妻を連れて行かねば。
 尚次郎は力を失いずっしりと重いふみを抱え、深い雪に足をとられ、もつれさせながら歩いた。

 全力で早く進んでいるつもりが、股まで埋まる雪に阻まれて、足は遅々として進まない。
 だがどうにか、小さな掘立小屋に二人はついた。
 扉を繋いでいる縄は雪の湿り気で腐っていたので、何度かガタガタと揺すると簡単にちぎれた。
 尚次郎は中に入ると、土埃くさい藁の上にふみを寝かせ、雪が入ってこないよう扉を閉めた。
 持ってきた松明はとうに消えて捨ててしまったので、小屋の中は暗い。
 ふみは息はあるが、眠ったように動かない。
 尚次郎は妻の体を抱き寄せ、手足を包むように温めた。
 自分も雪の中をかき分けながら散々歩いたので、着物や袴は濡れ、体の芯から冷え切っているが、それでもまだ妻の凍り付いたような体よりは暖かいはずだ。
 尚次郎は、はあっと息をかけたりさすったりしながら、何とか妻を温めようと試みた。
 やがてふみはもぞもぞと動いたと思うと、ゆっくりと眼を開けた。
 暗い中、自分がどうなっているのか判らず、きょとんとしている。

「気が付きましたか」

 尚次郎が呼び掛けると、ふみは初めて声のする方に目を泳がせ、尚次郎を探した。

「誰 ?」
「私です。尚次郎です」
「……ではここは天国ではないの?」
「残念ながら。貴女は雪の中に走り出して、原っぱの真ん中で迷った半ば埋もれていたのですよ。その赤い綿入れが貴女を見つけるのに役立った」
「……式部さまかと思ったら、お前だったの……」
「申し分け在りません」

 妻は小さくため息をついてまた目を閉じた。
 薄い瞼に青い血管が透けて見え、細い体はちっとも温まった気配がない。
 尚次郎も奉行所から帰ってすぐの態だったので、火打石や火付けの縄など持ってはいないし、この粗末な小屋は壁に仕立てた板も隙間だらけで、そこから容赦なく雪が入り込み、床に少しずつ積もっていく。
 自分の合羽の水滴をできるだけ振り払い、それでふみをくるんで抱いた。
 手は自分の二の腕の間に挟んだが、その冷たさにぞっとした。足は股の間に挟み、できるだけ体温で温めようと試みた。
 ふみは抗う気力もないようだった。

「ほおっておいてくれればよかった。そしたら刑場に着いた夢を見ながら天国に行けたんです。式部様や皆と一緒に」
「首の埋葬の話を聞いたんですか」

 ふみは黙っていた。

「命を粗末にしないでください。西堀様が命がけでこの世にとどめてくれた貴女の命です」

 尚次郎はぽつりと漏らしながらも、まだ妻の顔が見られなかった。

「最後の最後であの方は無慈悲でした。私にこんな試練を与えるなんて」
「貴女達は死に急ぐように見えますが、神は命を粗末にせよとは言っていないでしょう?」

 何も知らないくせに、教えを聞いたこともないくせに。ふみは目を閉じたまま呟いた。

「尚次郎殿、お願いがあります」
「何ですか? ろくでもない事だったら聞きませんよ」

 今にも寝てしまいそうなふみを寝かすまいと、尚次郎は必死で話を繋ぐことにした。
 今眠られたら間違いなく妻は凍死してしまう。

「切支丹は自分で死ぬことが出来ません。大きな罪になるから。だからあなたが殺してください」

 それは何度も聴きました、と尚次郎は呟いた。

「お願いだから」
「出来ません。しません」

 ふみはパチッと目を開けて、尚次郎をにらみつけた。

「私を雪の中に戻して、ご自分だけそのまま戻ればそれで済むのです。それだけなのになぜしてくれないの?」
「それは」

 尚次郎は心を決めて妻の眼を見た。
 怒りであれ何であれ、感情が動いたというのはいい傾向だ。

「それは、私が鬼か悪魔だからです。先日貴女が言ったように」
「覚えていたんですか」
「忘れませんよ。人間というものが、この世で一番恐ろしい鬼畜か悪魔だ。あなたは婚礼の後私にそう言った」
「ええ」
「その、私に対する貴女の憎しみを生涯受け止め続けることが、私の十字架なんです」
「え?」

『十字架』と、この新しく夫とされた男は言った。
 なぜそんな言葉を知っているのだろう。

「江戸で甘糟殿やヨハネ原主水様から聴きました。人が逃れることのできない苦しみで、切支丹はそれを神様が代わって担ってくれたから、永遠の命に至ることができるのだと」

 ふみは驚いた。
 キリスト教には無知だとばかり思っていた夫が、指導者甘糟様や、江戸で殉教したと聞く名高い切支丹とそんな話をしていたとは。

「私は切支丹ではないから、神に代わってもらうことなどできない。だから一生背負っていきます。でも」

 尚次郎は片方の口の端を上げて、笑ったか泣きそうなのかわからない顔をした。

「私への怒りや憎しみは貴女の生きる心の囲炉裏の火、焚き木か薪にはなるでしょう? だからそれでいいんです」

 ふみは黙ってしまった。

「……気分を害されましたか? でもお顔にほんの少し血の気が戻ってきましたよ」
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