第45話 一粒の麦・5

文字数 2,734文字

 師走の声を聴いたのもあっという間、ふみにとって忘れられない「ご降誕」の前夜がやってきた。
 前の年は西堀の屋敷を開放し、広間一杯に祭壇や聖母子の御画、手作りのロザリオ、十字架や木造りの聖家族の像などならべて盛大に祝った。
 数日前から集まってくる信徒のためのお祝いの夕餉の用意をし、酒を買いこみ、大勢の召使たちに指示を出しながら忙しくも楽しく準備の日々を過ごした。
 そして夫の西堀式部の音頭による荘厳なるナターレの聖歌を歌い、夫の威厳ある説教に聞き入った。
 だがその時はもう、自分たち切支丹の処罰の命は出ていたのだ。
 ただ家老志田修理の命を賭した進言によって延期されていただけなのだ。

「ふみ、寒くはないか?」

 いつまでも降りやまぬ雪に戸口の傍に立ち見入っている妻を、尚次郎は気づかった。
 彼も思い出しているのだ。
 自分が奉行所の人間としてではなく一私人として、棄教を促すために西堀家を何度も尋ねた事を。

「大丈夫です。でも、雪が降る夜はあまり好きません。特に今日は……」
「そうだろうな。でもちょっとこちらに来てくれ」

 火箱の近くの温かい床に布団を敷いた上で、赤子はすうすうと安らかな寝息を立てて眠っている。
 尚次郎は火の傍に腰を下ろして、先刻明るいうちに納戸から持ってきた、ひとつかみの胡桃の実と格闘していた。
 胡桃は秋に使用人たちが山で拾ってきて、皮をむいて殻ごと良く乾かし、冬の保存食として倉に保存しておいたものだ。
 尚次郎が持っているのは、中の実を料理番がすりつぶして干し野菜の和え物に使った残りの殻で、片手に小刀を握って、真剣に細工物を施している。

「何か掘っているのですか?」
「うん、ちょっとな。うろ覚えだからわからないところがあって……」

 ふみが何?と近寄ってのぞき込むと、夫が小さな胡桃の殻の中に器用な手つきで彫りだしているのは、赤子を抱いた小さな女と、その後ろに立つ人影だ。

「……プレゼピオ……」
「お前たちはそう呼ぶのか? 西堀様の祭壇にこういうのがあったなと思いだして」

 偲ぶよすがも何もないのでは、お前も寂しいだろう?
 秘密にしておけば、こうしてつがいになる殻をぱちんと嵌めて、とっておくことができる。
 見つかりそうになったら火にくべてしまえばいい。
 この母親と子供の意匠は、お前たちにとって特別な意味があるんだと思い出してな。

「殻の中の削り出しが上手くできない時に備えて、木彫りの小さな像も作ってみた。飯粒で殻の中に貼り付ければいいかと思って」
「いいえ、いいえ……これで充分です。嬉しいです」

 忘れないでいてくれて。

「今夜には間に合いそうもないから明日の夜だね。飯の後に座敷に置こう」

 召使にはなんでこんなものが置いてあるんだと不思議がられるかもしれないが、と尚次郎は笑った。
 西堀様を斬ってしまった事実はけして消えないが、こうして少しずつ、贖うことを許してもらえたら。
 ふみはそっと尚次郎の背中に顔を寄せてもたれかかった。

「おお危ない。小刀とは言え刃物を扱っているんだよ。気をつけて下さい」
「ごめんなさい」
「……本当は貴女に内緒で全部作り上げてから、見せて驚かせようと思ったんだが、駄目でした。どういう像だったかはっきり思い出せなくてつい」

 この男はどういう手つきをしているのだ、どちらを向いているのが本当なんだ? 慌てて尚次郎は尋ね始めた。
 ふみは、そういう不器用で後先の事を考えない尚次郎が愛しいと思えた。

 翌二十五日。
 新野家の座敷には一個のクルミの実が置いてあった。
 けしていじったり動かしたり、捨ててはいけないと主人に命令されていたので、使用人たちは手を出さなかったが、皆訝し気に首をひねった。

「さあ拾丸、よく見ててね」

 夕餉の後、母の胸に抱かれた赤子は目をまんまるにして、顔の前に父が付きだした胡桃を見詰めていた。

「これをぱかっと開けると、ほおら」

 胡桃の殻の中には昨夜から一層緻密に削りだされた母と子、そして二人を護るように立つ父親の像が鎮座していた。
 目の前に突然現れた人形に、拾丸はキャッキャッと笑って必死に手を伸ばした。

「ほらだめだめ。まだお前に渡すことはできないんだ。すぐに放り投げてしまうだろう?」
「そうしたら折角のお父様の力作が壊れてしまいますからね。お拾は観るだけね」

 明々と燃える裸火の揺らめきの中で、赤子とふみ、そして赤子をあやす尚次郎の顔は穏やかだった。

 雪が溶けていく音というのはいいものだ。
 小枝の先からしずくの滴る微かな音、山の奥から雪の壁が雪崩れてくる深い音、そして雪解け水が流れ込んで、息を吹き返したように勢いよく流れだす最上川の音。
 父や祖父の代が治水工事して整えた米沢の川の早春の姿である。
 その清流の脇を小さな人影が3つ、ゆっくりと歩いていた。
 暖かな綿入れの着物を着た女性、ふみは幼い男の子の手を引き、やや前に立って歩く尚次郎は分厚いねんねこにくるまれた赤ん坊を抱いている。

「父上、変な生き物がいます」
「ああそれは蛙というのだ。毒があるけどこちらが手出しをしなければ何もしない」
「気持悪いです」
「怯えていられないぞ。その生き物はたいそう高く飛ぶからな」

 尚次郎は、五つになったばかりの拾丸の頭をわしわしと撫でながら笑いかけた。
 膝を折って子どもの眼線にしゃがんでやる。
 拾丸の背丈は、土手にこんもりと茂って和毛を銀色に輝かせるネコヤナギと、ちょうど同じ高さであった。
 澄んだ色素の薄い瞳が、実の父親を思い出させる。

「毒を撒きながら母様や『はつ』に危害を加えそうになったら、お前も母様たちを守るんだぞ」
「大丈夫です、父上」

 雪溶け後に咲いた花を眺めながら、やや少し先に行きかけていたふみが立ち止まって振り返った。

「勇ましい事、お拾は」
「父上には負けませんよ」

 尚次郎の腕の中で、赤子『はつ』は何も知らぬげに眠っていた。
 頼んだぞ、拾丸。俺が頼まれたように。母様と妹が静かに精一杯生きられるように。

 松川家は、さんざん独身生活を謳歌した信士郎が嫁をとり、昭和まで続いたが、第二次世界大戦で息子たちが戦死し、直系の血筋は途絶えた。
 新野尚次郎純直と妻のふみそして子供達は、その後数十年続いた迫害を逃れ、一族の血を後の世に伝えることができた。
 そして、その末裔がこうして物語を世に伝えることができたのだ。
 米沢の地に精一杯生きて死んでいった人たちの事を、幾許かでも記憶にとどめておいて頂けたら幸いである。
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