第15話 主は我が牧者・4
文字数 2,470文字
尚次郎が湯屋に通うようになって何か月かが過ぎた。
土手の草花も、白い穂を出して風に綿毛を飛ばしていたススキもすっかり枯れ、その枯れ尾花に留まっていた赤とんぼの大群も姿を消した。
『もうすぐ雪が降りだしてくるのか……』
尚次郎は着物に羽織を重ね、更に長くひょろりと襟から伸びた首に布を巻いて寒さをよけながら、土手沿いの道を足早に歩いていた。
この頃は彼が来るとすぐにおひなを回してくれるほど、尚次郎は湯屋にとってなじみになっていた。
彼が急ぎ足になったのは、もうすぐ優しい湯女に会えるという気持ちだけではない。
彼は、おひなに湯屋を辞めてほしかった。
卑しまれる身分の仕事を辞めて、自分たちの足軽屋敷で下働きとして働かせようと考えていた。
信士郎に相談したが
「身分が違い過ぎるし、そんな職に就いていた女を貴様の父上や母上が雇うはずがない」
と一蹴された。
だが、言ってみなければわからないではないか。
ふみの時のようにはならない。
尚次郎は袖口の中に握った手を隠し、いつになく真剣な顔で湯屋へと急いだ。
湯処の受付番に、いつものように「ひな」をつけてくれるように言うと、顔に疱瘡の痘痕のある背の低い出っ歯の爺は卑し気な笑いを浮かべて返事をした。
「ひなという女は湯女の仕事はしておりません」
「何を戯けたことを……つい先日もいたではないか」
受付番の爺は下卑た声を立てて笑った。
「湯女頭に睨まれて、折檻のために風呂炊き番に回されたのでございます。なんでも馴染みのお侍さんと、入ってはいけない納戸に入り込んで毎度もてなしていたとかで…」
尚次郎の頭がかっと熱くなった。
「では、裏の風呂炊き場に回ればひなは居るのだな」
ついつい口調が強くなる。女が咎めを受けたのは自分のせいだ。
「居ることは居ますが、むさ苦しい窯焚き男たちの中に一人放り込まれたわけですから、無事では居りますまい」
お前の我儘のせいで女が慰み者にされる気分はどうだ?あまちゃんのお侍さんよ。
尚次郎に向けられた爺の濁った瞳がそう嘲笑っていた。
「そんなことまでは聴いていない。案内しろ」
「そんなことまではわしの仕事ではありませんでな」
すっと差し出された、鼻水を拭いたあとだらけの汚い爺の袖の上に、尚次郎はいくばくかの銭を載せてやった。
「こちらでございます、お侍様」
爺は怒りに満ちた尚次郎の視線を軽くいなすと、そそくさと先に立って案内をした。
「あの女は薪小屋でございます」
息きせって走ってきた尚次郎を風呂炊きの屈強な下男が迎えた。
妙に肌の色つやの良い、筋骨隆々とした下男はやはり若造を小ばかにしたような笑みを浮かべ、薪割りの手を止めて近くの掘立小屋を指し示した。
「おいお侍がお前に用だとよ」
尚次郎は下男の声を背に薪小屋に歩を進めた。
「ひな!」
土埃に汚れた襦袢と腰巻、そこからむき出しの大きくこじ開けられた太ももや顔、腕にあざや傷を負った女が、大儀そうに横たわった地面から身を起こすところだった。
その身によからぬことをされていたのは明白だ。
「ここまで、なぜ来られたのですか……」
女は身を起こすと、あきらめきった弱々しい乾いた笑みを尚次郎に向けた。
けして目線を合わせない。
尚次郎はおのれの甘さに愕然とした。
自分のわがままがこの女の不幸に追い打ちをかけた。
「俺が話をつけるから、もう大丈夫だ。ここを出るぞ」
しばらく見ないうちに激しくやせ細った骨と筋のような女の体を抱き起し、尚次郎は囁いた。
「私を助けてくれるというのですか?」
女の声はとろりと甘く、尚次郎の耳をくすぐる。
「ああそうだ。さあ行こう。金も持ってきた」
「ありがとうございます。私はもう助けられています。あなたと神様に」
「神様?」
ひなの声に宿る、信心者特有の、確信を得て疑わない凄みに尚次郎は気づいた。
この女はどうしたのだ?
「ええ。神様。私はもう守られていますから、私を助けてくれるという尚次郎さまも助けてもらえます」
何を言っているんだおひなは。
「お前は誰の事を言っているんだ?」
「私がどんなに汚されても、けして芯まで汚されることはありません。ぜず様が全部見ていてくださいますから」
ひなの大きな目がひたと尚次郎の目をとらえた。
痩せこけてひときわ大きくなったその瞳に、当惑した自分の間抜けな面が映っている。
尚次郎は自分が抱いているのが、数日前までの素朴で情熱を自分に一心に傾けてくれた女ではなく、その姿かたちをした何か異物のように思えてきた。
このもの言いの仕方は……
「お前も切支丹なのか?」
「はい。だからもう安心なのです。私がどこにいても誰といても」
ひなは、はだけた襟元を細い手でぐっと広げた。
見慣れた小さな薄い乳房と、激しく弄ばれた直後なのか南天の果実のような赤く腫れた乳首の間に、何かぶら下がっている。
べっこりとへこんだ肋骨と腹の間に、長いひもでくくられた十文字の細工と黒い木の実の数珠のような輪状のものが。
「それは、ろざりお?」
「ろざりおという名をご存じなのですね!」
ひなの血の気の薄い顔がぱあっと明るくなった。
「それだけで私はうれしゅうございます。尚次郎さまと一緒に行きたい。そして一緒にぜず様や神様に」
この女は何者になってしまったんだ
別人のように饒舌に、「かみさま」の元で一緒に祈ろうと言い募るひなを、尚次郎はまじまじと見つめた。
余りに苦しくて気が触れてしまったのか。
それとも、もしかして初めから、自分を凋落して信仰に誘いこむことが目的だったのか?
熱に浮かされたようにぎらぎらと光る女の澄み切ったまなざしは、変わらず黒く長いまつげに縁どられ、布団部屋で尚次郎の胸に抱かれて震えていたころと変わりないのだが、彼にはもう少しも愛おしいと思えなかった。
土手の草花も、白い穂を出して風に綿毛を飛ばしていたススキもすっかり枯れ、その枯れ尾花に留まっていた赤とんぼの大群も姿を消した。
『もうすぐ雪が降りだしてくるのか……』
尚次郎は着物に羽織を重ね、更に長くひょろりと襟から伸びた首に布を巻いて寒さをよけながら、土手沿いの道を足早に歩いていた。
この頃は彼が来るとすぐにおひなを回してくれるほど、尚次郎は湯屋にとってなじみになっていた。
彼が急ぎ足になったのは、もうすぐ優しい湯女に会えるという気持ちだけではない。
彼は、おひなに湯屋を辞めてほしかった。
卑しまれる身分の仕事を辞めて、自分たちの足軽屋敷で下働きとして働かせようと考えていた。
信士郎に相談したが
「身分が違い過ぎるし、そんな職に就いていた女を貴様の父上や母上が雇うはずがない」
と一蹴された。
だが、言ってみなければわからないではないか。
ふみの時のようにはならない。
尚次郎は袖口の中に握った手を隠し、いつになく真剣な顔で湯屋へと急いだ。
湯処の受付番に、いつものように「ひな」をつけてくれるように言うと、顔に疱瘡の痘痕のある背の低い出っ歯の爺は卑し気な笑いを浮かべて返事をした。
「ひなという女は湯女の仕事はしておりません」
「何を戯けたことを……つい先日もいたではないか」
受付番の爺は下卑た声を立てて笑った。
「湯女頭に睨まれて、折檻のために風呂炊き番に回されたのでございます。なんでも馴染みのお侍さんと、入ってはいけない納戸に入り込んで毎度もてなしていたとかで…」
尚次郎の頭がかっと熱くなった。
「では、裏の風呂炊き場に回ればひなは居るのだな」
ついつい口調が強くなる。女が咎めを受けたのは自分のせいだ。
「居ることは居ますが、むさ苦しい窯焚き男たちの中に一人放り込まれたわけですから、無事では居りますまい」
お前の我儘のせいで女が慰み者にされる気分はどうだ?あまちゃんのお侍さんよ。
尚次郎に向けられた爺の濁った瞳がそう嘲笑っていた。
「そんなことまでは聴いていない。案内しろ」
「そんなことまではわしの仕事ではありませんでな」
すっと差し出された、鼻水を拭いたあとだらけの汚い爺の袖の上に、尚次郎はいくばくかの銭を載せてやった。
「こちらでございます、お侍様」
爺は怒りに満ちた尚次郎の視線を軽くいなすと、そそくさと先に立って案内をした。
「あの女は薪小屋でございます」
息きせって走ってきた尚次郎を風呂炊きの屈強な下男が迎えた。
妙に肌の色つやの良い、筋骨隆々とした下男はやはり若造を小ばかにしたような笑みを浮かべ、薪割りの手を止めて近くの掘立小屋を指し示した。
「おいお侍がお前に用だとよ」
尚次郎は下男の声を背に薪小屋に歩を進めた。
「ひな!」
土埃に汚れた襦袢と腰巻、そこからむき出しの大きくこじ開けられた太ももや顔、腕にあざや傷を負った女が、大儀そうに横たわった地面から身を起こすところだった。
その身によからぬことをされていたのは明白だ。
「ここまで、なぜ来られたのですか……」
女は身を起こすと、あきらめきった弱々しい乾いた笑みを尚次郎に向けた。
けして目線を合わせない。
尚次郎はおのれの甘さに愕然とした。
自分のわがままがこの女の不幸に追い打ちをかけた。
「俺が話をつけるから、もう大丈夫だ。ここを出るぞ」
しばらく見ないうちに激しくやせ細った骨と筋のような女の体を抱き起し、尚次郎は囁いた。
「私を助けてくれるというのですか?」
女の声はとろりと甘く、尚次郎の耳をくすぐる。
「ああそうだ。さあ行こう。金も持ってきた」
「ありがとうございます。私はもう助けられています。あなたと神様に」
「神様?」
ひなの声に宿る、信心者特有の、確信を得て疑わない凄みに尚次郎は気づいた。
この女はどうしたのだ?
「ええ。神様。私はもう守られていますから、私を助けてくれるという尚次郎さまも助けてもらえます」
何を言っているんだおひなは。
「お前は誰の事を言っているんだ?」
「私がどんなに汚されても、けして芯まで汚されることはありません。ぜず様が全部見ていてくださいますから」
ひなの大きな目がひたと尚次郎の目をとらえた。
痩せこけてひときわ大きくなったその瞳に、当惑した自分の間抜けな面が映っている。
尚次郎は自分が抱いているのが、数日前までの素朴で情熱を自分に一心に傾けてくれた女ではなく、その姿かたちをした何か異物のように思えてきた。
このもの言いの仕方は……
「お前も切支丹なのか?」
「はい。だからもう安心なのです。私がどこにいても誰といても」
ひなは、はだけた襟元を細い手でぐっと広げた。
見慣れた小さな薄い乳房と、激しく弄ばれた直後なのか南天の果実のような赤く腫れた乳首の間に、何かぶら下がっている。
べっこりとへこんだ肋骨と腹の間に、長いひもでくくられた十文字の細工と黒い木の実の数珠のような輪状のものが。
「それは、ろざりお?」
「ろざりおという名をご存じなのですね!」
ひなの血の気の薄い顔がぱあっと明るくなった。
「それだけで私はうれしゅうございます。尚次郎さまと一緒に行きたい。そして一緒にぜず様や神様に」
この女は何者になってしまったんだ
別人のように饒舌に、「かみさま」の元で一緒に祈ろうと言い募るひなを、尚次郎はまじまじと見つめた。
余りに苦しくて気が触れてしまったのか。
それとも、もしかして初めから、自分を凋落して信仰に誘いこむことが目的だったのか?
熱に浮かされたようにぎらぎらと光る女の澄み切ったまなざしは、変わらず黒く長いまつげに縁どられ、布団部屋で尚次郎の胸に抱かれて震えていたころと変わりないのだが、彼にはもう少しも愛おしいと思えなかった。