第6話 荒野にて叫ぶ者在り・1

文字数 3,932文字

 親友の松川信士郎は言う。
「ふみはやめておけ。あいつは我が妹ながら中身は男だぞ」
 そして友人の顔をまじまじと見ながら
「お前みたいにくそ真面目で無口な奴はたちまち尻に敷かれるのがおちだ。現に今でもそうじゃないか」
 新野捨丸は違う、違う、信士郎は全く分かっていないと悔し気に呟きながら、屋敷の裏門から細い掘盾川の用水路沿いの武者道を歩き出した。
 手には庭の柿の実を三個。
 下男に頼んでもいでもらったそれを、捨丸は着物のたもとに入れた。
「捨丸坊ちゃん、どちらへ」
 風呂炊きの下男の声に、もごもごと口の中でためらうようにつぶやいた後、はっきりと言った。
「松川の信士郎の家に行ってくる。すぐ戻る」
「いってらっしゃいまし」
「父上や母上が探していたら、すぐ戻ると伝えてくれ」
「承知しました」
 十二歳の誕生日をもって元服の儀を執り行うと、父に申し渡されたときから、捨丸は決めていた。
 元服したら大人になるということ。
 そうしたらふみにも気楽に会えなくなる。
 その前にどうしても、自分の気持ちを正直に、ちゃんと伝えようと。
 下駄を鳴らして歩く足取りは毅然としていた。
 信士郎はああ言うけれど、ふみだって俺のことを嫌いではないと思う。嫌いだったらあんなに笑いかけてくれないと思うから。
 あの子の笑顔をずっと見ていたい。できれば一生、ずっとそばで。
 道場のけいこ仲間の年上の少年の中には、もう許嫁がいる者も在る。
 もし勇気を振り絞ることができたら、ふみに言ってみたい。
 将来妻になってくださいと。
「何考えているんだよ捨丸」
 ずんずん歩くうちに加速していく自分の想いに、捨丸ははたと気が付いた。
 こんなに前のめりになってはだめだ。一人で自分一人の頭で考えるだけではいけない。人の気持ちを考えろと、たぶん兄上だったら言うだろう。
「ごめんなさい兄上。お捨は少し頭を冷やします」
 着物の袂でぶらぶらと揺れる柿の実の重さを感じながら、捨丸はややゆっくり歩くようにした。
 それでもご近所といっていい距離にある新野家と松川家である。
 頭を冷やす間もなく着いてしまった。
 裏木戸からそっと屋敷に入った捨丸は、幼いころから顔なじみの飯炊き女に声をかけ、ふみの居場所を尋ねた。
 滅多にないが、ふみが母上の傍や屋敷の奥にいたら、 改めて正面から門に回る必要がある。
 だが幸いふみはまた庭の隅で虫取りをしているという。
 秋のマツムシやコオロギを探して、虫かごで飼うのが好きなのだ。
 やっぱりだ。きわめて彼女らしい、ふみにふさわしい居場所だ。
 捨丸は、我が家よりはずっと広い松川家の庭に目を走らせふみの姿を探した。
 ウコギの垣根と彼岸桜の木の間に、ちらりと鶯色の着物が見えた。
 彼女だ。
 捨丸は一歩ずつ草履を踏みしめて、その着物に向かって歩き出した。

「おふみ」
 やや緊張した捨丸の声に、鈴虫を探して庭の木の根元にしゃがんでいたふみは立ち上がった。
「捨丸、どうしたの。裏門から入ったの?」
「うん……」
「だと思った。表が開いた気配がなかったから」
「何やってるの、おふみは」
「秋の虫を探しているの。病気の婆様の枕元で鳴くように籠で飼おうと思って」
「ふみの婆様、ご病気か」
「母上が言うには、もう歳をとりすぎていつお迎えが来てもおかしくないって」
「そうなんだ……」
 話が途切れると、とたんに捨丸は落ち着かない。
「捨丸は何かの御用?」
「うん。これ……」
 捨丸は思い出したように、両の袂から柿の実を取り出した。
 暖かな夕日を集めて丸く形にしたような、すべらかな柿の実の重さとひんやりとした触感は、緊張に顔が強張る捨丸を多少なりとも落ち着かせた。
「柿だよ」
 ふみの丸い美しい顔がぱあっと輝いた。ああこの笑顔が自分は大好きなんだ。捨丸は無性に嬉しく、勇気が沸いてくるように思えた。
「捨丸の母さまから? 嬉しい。母上に言わなくちゃ」
「いや違う。自分が勝手に持ってきた」
「勝手にって……」
「婆様や松川様にじゃない。おふみに持ってきた」
 ふみは嬉しいような、あっけにとられたような真ん丸な目で捨丸を見つめた。
 その強い目線に押されて捨丸は、少女のような長いまつげを伏せてしまいたくなる。でもそれでは何も始まらない。
 何かが終わってしまうかもしれないけれど、何もないままというのもつらい。
「捨丸はこのたび、十二歳の誕生日をもって元服することになったんだ」
「とうとう元服なんだ、このチビのお捨が……」
 なるほど子供の頃の一歳違いというのは大きい。女の子の方が成長が速いだけになおさらだ。
 既に十二歳になっているふみはすらりと背が高く、胸元もふっくらと大人びた容姿になりつつある。
「元服すると大人になるわけだから、もうこんな風に気やすく遊びに来れなくなるんだろう?」
「そうよ捨丸。捨丸殿、になるんだもの」
 ふみの口調も落ち着いたものに響く。なんて美しくて賢いんだ、この娘は。
「だからその前に言いに来た。笑ったり茶化したりしないでよく聞いて」
「なによ」
「俺はふみのことが好きだから、将来妻になってほしいと思ってる」
 突然の想像だにしない告白だ。
 ふみの口がぽかんと半開きになり、つぶらな目がこれ以上ないくらい大きく見開かれた。
「今はまだ元服もしていないチビで子供だけど、大きくなって、ちゃんと新野の家督を継いで、お城にも出仕できるようになったら、捨丸の女房殿になってくれないか?」
 捨丸は一気にまくし立てた。
 ふみの返事や相槌を待っていたのでは、心が挫けてしまいそうで怖かったからだ。
 あの世から見ている兄の登米丸なら、ああバカお捨。そんなに一気に押してどうする、と舌打ちしたであろう。
 だが捨丸は怖かったのだ。自分の言葉が手折られるのが。

「捨丸、それ自分だけで考えたでしょ」
「え? 」
 捨丸は意外な返事に一瞬ぽかんとなった。
「うん、そうだけど……」
「祝言を上げたいって、物凄く重大なことだってわかっていない」
「え、何か無理なことがあるのかな」
「祝言とかそういうのは父上や母上、一族の偉い方々が決めるものでしょう。子供だけで決められるわけないじゃないの」
「そうかなあ……俺はただ、ふみを嫁に欲しいっていうだけなんだけど」
「でも捨丸の家、松川のうちより偉くないでしょ」
 鋭い一言に捨丸の心はえぐられた。
「でも俺がお城に行って出世して、えらくなったら……」
「それでもふみは、捨丸のこと好きにならないと思う」
「えっ」
 捨丸の心に大風が吹いた。
「だって捨丸は弟みたいなんだもの。兄上、私、そして弟に捨丸」
「それひどくないか?」
「隠しておいたってしょうがないし」
 でも、でも俺だってすぐ大きくなるし、大人になるし。
「俺は、ふみが惚れてくれるくらい立派な侍になる。頑張る」
「うん……それは、まあ頑張って」
 ふみは困ったような笑顔を見せた。
 その表情が、捨丸の繊細な心には、身分や弟にしか思えないという言葉より響いた。
 これは、ふみが本気で俺のことを何とも思っていない困惑の顔だ。
「おふみ、おふみはどこにいるの?」
「あ、お母様の声だ」
 母屋から自分を呼ぶ声に、ふみはほっとした顔を見せた。
 その安堵感に満ちた表情が捨丸を一層傷つける。
「じゃ、捨丸またね」
「最後にこれだけ、ふみ」
「なに?」
「おふみは、今好きな人がいるのか?」
 いないよそんなの、という答えを捨丸は期待していたのかもしれない。
 だがふみの口から意外な人の名が出た。
「うん。誰にも内緒によ…西堀式部さま」
 じゃあね、と軽やかに走り去るふみの、翻る着物の裾をじっと見た目ながら、捨丸は立ち尽くしていた。
 西堀式部。すっと年上の、逞しく精悍な憧れの若侍。
 兄を失ったばかりの幼い日、当たりの強い年上の者たちから自分を守って、友達になってくれた人。
 兄なき自分の憧れ。
「敵うわけない……絶対に無理だ…」
 おまえ、しっかりしろよとふみの兄、松川信士郎に声をかけられるまで、捨丸は松川家の庭の隅で固まっていた。

「だから言っただろう、妹はやめておけと」
「信士郎、お前はおふみの好きな男、知っていたのか?」
「ああ。あいつは俺たちや家族の前ではあんな男娘だけど、西堀様を目にするときには女の子の顔になるんだ」
「ふみは女の子じゃないか、もともと」
「いやそういう意味じゃなく。多分お前が全然見たことのない『女』になるんだよ。お前じゃ勝ち目はない」
「まだわからないじゃないか。俺だって大きくなるし、ふみが見直して惚れてくれるようになるかもしれない」
 信士郎はため息をついた。
「お前のそういうところ、俺は嫌いじゃないが」
 そうだよ。俺だってもっと勉強して、剣の腕も磨いて偉くなってやる。
 絶対無理だなんて誰が決めた? 自分を高めていけばいい。ふみが惚れてくれるくらいに。
 またな、と信士郎に挨拶して、捨丸は家路についた。
 すっかり遅くなってしまった。父上から叱られるかもしれない。
 捨丸は軽くなった袂をはしょり、急ぎ足で武者道を歩いた。
 身体を動かしていないとどうにかなってしまいそうだ。
 努めて前向きに考えようとしても、捨丸の思いが拒まれたことには違いない。
 今夜はあまり眠れそうにない。早く明日が来てくれ。
 そうすればまた、剣の稽古でくたくたになるまで体を酷使して、汗をかいて、この重苦しい思いを忘れることができる、
 ……かもしれない。
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