第5話 ヴェロニカの布・3

文字数 2,390文字

 ふみと信士郎は12歳、捨丸は11歳を迎えた。
 少年となった捨丸には、そろそろ元服の話が持ち上がっていた。
 兄の登米丸亡き後新野家の嫡男として、立派に名跡を継ぎ、城内に出仕し、善き嫁を娶り子をもうけてお家を発展させる。
 それが捨丸に期待されることだった。
 登米丸が健在だったころや夭折した直後には何の期待もされていない、ただのごくつぶしに近い次男坊扱いだったが、今は違った。
 生来の生真面目で神経質な性格から、勉強も剣も徹底してやらなければ気が済まない。
 自分は兄のようになりたい。兄に近づけば近づくほど両親や周りの人から認めてもらえる。褒めてもらえる。
 幼いころからあまり褒められた経験のない捨丸にとって、自分という存在を認めてもらえるのは脳天がしびれるほどに嬉しく、麻薬のような甘い体験だった。
 ふみにも褒めてもらいたい。ふみに認めてもらいたい。
 口に出しては言わなかったが、捨丸はふみを愛していた。
 少年らしい無邪気さで愛していた。だがどうしていかわからなかった。
 着物を濡らしながら川で魚を取り無邪気に笑う姿をまじかに見るにつけ、下僕のように手荒に扱われるにつけ、それをふみの兄の信士郎に呆れられるにつけ、それでも嬉しいと言わざるを得なかった。
 捨丸はより一層剣の稽古に励んだ。
 始めは誰も相手にされない、木刀に振り回されるほどのひよわさだった捨丸は、徐々に強くなり、時々は年上の少年を打ち負かすほどになっていた。
 身長や相変わらず体はさほど大きくなく腕も細く、色白く涼やかな目元の美しい少年が、徐々に肩幅は広く、背中もたくましくなってきた。

 あの日の道場での稽古の相手は、捨丸の相手は身分が上の父を持つ、兄の死の直後捨丸をいじめた年上の少年だった。
 死に物狂いで対峙した稽古相手に向かって行った。
 まだまだチビで弱虫だと油断していたのか、相手の少年はびしりと小手を打たれて捨丸に負けてしまった。
 信じられないという顔で捨丸を見つめるその顔に、少々得意になったのも事実だ。
 その帰り道のことだ。
 道場の帰り、掘盾川のたもとの武者道で、捨丸はいきなり一人の少年から待ち伏せを受けた。
 先刻けいこで打ち負かした年上の少年だ。

「お前、たまたま運よく俺を負かしたところで、調子に乗っているだろう」
「調子になんか」
「うるさい。自分が本当は虫けらのように弱いんだと、思い出してみろ」

 年上の少年は殴りかかってきた。
 袋竹刀は脇に置き、素手で捨松にとびかかってくる。
 以前いじめてきたときは同年代の年かさの少年たちを動員してきたのだが、今回は一人だ。その点進歩したというべきか。
 小柄な捨丸はたちまち組み伏せられ、げんこつの嵐が顔面や腹、胸やみぞおちを襲った。
 容赦のない痛みが顔を、身体を襲い、捨松の口の中には血の味が広がり、顔もぬるぬるしてきた。
 鼻血が噴き出したのだ。
 夢中で馬乗りになった相手を蹴飛ばし、すり抜け、抵抗した。
 武器を使わない体術は武士の大事な格闘術でもある。
 二人は通りがかりの武士が大声で怒鳴りつけるまで殴り合っていた。

「こっちだ、捨丸」

 顔中血と泥で汚れた捨丸を手招きするものがいた。
 親友の松川信士郎とふみの兄妹だ。

「大人たちに見つかると厄介だからな」

 松川家の庭の隅に、三人は身を潜めた。

「あーあ、派手にやられたもんだな」
「母上に怒られるなあ」
「水をもらってくる。少しでも服の泥と血を拭け」

 信士郎はパンパンと捨丸の背中をはたいて、手桶を下げていった。
 あとには赤い着物を着たふみと、けがをした泥だらけの捨丸が残された。

「捨丸、がんばったね。逃げなかったね」

 ふみがそそっと近寄り、にっこりと笑いかけた。
 捨丸は、その澄んだ大きな瞳にのぞき込まれると息が詰まりそうになる。
 ただでさえ喧嘩のあとで息が上がっているというのに。
 この娘はなぜこんな意地悪そうな、でも可愛い笑顔を向けるのだろう。
 自分がその瞳から逃れられないことをわかっているのだ。

「血が固まっちゃうと、ふき取るのに厄介だからね」

 ふみは着物の袂から白いさらしの布を出すと、それをつと捨丸の顔の前に差し出した。
 糊と押入れの匂いがした。

「拭きなさい、顔を」

 捨丸は動けない。阿呆のように口をパクパクさせて、差し出した手のひらを開けたり閉じたりしていた。

「何やってるの、捨丸」

 ふみは強引にその手に布を握らせた。
 捨丸は緩慢な動作で、不器用に顔をぬぐった。
 白い布に赤い血と黒い泥が、捨丸の顔の形がわかるほどくっきりと着いた。
 ぎこちなく顔をふいている捨丸に、ふみは言った。

「強いね、捨丸」

 途端に捨丸はまた動けなくなった。
 その刹那、捨丸は恋に落ちた。

「何やってるんだお前」

 信士郎が水を入れた手桶を手に戻り、ふみに気が利くなと声をかけ、捨丸を呆れたように振り返るまで、硬直は続いた。
 ぺこりと一礼し、捨丸は脱兎のごとく走って行った。
 彼には分っていた。
 ふみは自分を何とも思っていない。
 もう一人の兄、例えるなら三つ子の兄弟の一人のように接しているに過ぎない。
 異性としての意識なんぞはこれっぽちもしていない。
 わかっている。
 俺だけが、俺の気持ちだけがふみを好きなんだ。
 一方的に思いを募らせているのは自分だけだ。

 家に戻った捨丸は、両親からひとくさり叱られた。
 そしてもうすぐ元服を行うと言い渡された。
 元服してしまっては、もう子供ではなくなる。

「いいか捨丸。西川の娘とももう今までのように会ってはならない。向こうももう子供ではないのだ」

 捨丸の小さな胸に、囂々とあらしが吹いていた。
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