第37話 トマスの指先・3

文字数 2,762文字

 夜明け前からの甘糟一族の処刑を第一組とするならば、西堀式部は第四組という順番になる。
 尚次郎達が無足橋のたもと、本五十騎町まで戻った時は、既に昼近くになっていた。
 彼にとって、ナターレの夜以来何度も顔を出した西堀の屋敷は、また騒然としていた。

「奉行所のものだ。西堀式部政偵殿に御出立を願う」

 下男に門を開けさせた尚次郎は、精一杯声を張り上げて屋敷の奥に叫んだ。

「尚次郎、しばし待ってくれ」

 切羽詰まった声と足音に、捕り手たちは一瞬身構えたが、屋敷から出てきたのは青ざめ険しい顔をした、ふみの兄・松川信士郎だった。

「信士郎、もう定刻なんだ」
「今、親父に代わって、殿の許しを持ってきたところだ。ふみを家に連れて帰る」

 屋敷の中は松川家や西堀家、そして召使たちと、大勢が落ち着かなく走り回っていたが、尚次郎を先頭に捕り手が上がると、奥の座敷に夫婦はいた。
 西堀式部はきちんと髭を剃り髷を結い直し、白い死出の晴れ着に、首から乳白色の象牙のロザリオを掛けていた。

「おお尚次郎、もう時間だな。待ちわびていたぞ」
「もう支度はできております」

 西堀は晴れやかな顔で、掛け軸としてかけていた聖母の画を外し、注意深く巻き取り、脇差代わりに腰にさした。

「さて、わしもふみも準備は整った。この聖母の御画が、わしの一番強い守り刀として、あらゆる悪と戦ってくれることだろう」
「私も一緒に参ります。尚次郎さま、縄を」

 夫と同じく白い晴れ着を着て、薄化粧を施し髪をつややかに垂らしたふみは、白くほっそりとした首にやはりロザリオをかけている。

「いいえ、お二人に縄はかけません。そのままで刑場までお連れします。そしてふみ殿」

 尚次郎はつかつかと夫婦の前に立った。

「貴女はここに残します。処刑は式部殿だけです」
「どうして!? 私も切支丹です」

 ふみはあどけない、少女のような顔で尚次郎と夫を見た。

「殿の御沙汰です。貴女のお父上や兄上が、殿やご家老に頭を下げて懇願なさったおかげです。ふみ殿は残り式部殿、貴方だけ私と共に参りましょう」
「待ってくれ尚次郎。私とふみは一緒に信心に励んできた。共に殉教という最高の栄光にあずからせてくれ」
「尚次郎殿、後生です」

 信史郎の冷静な声が飛んだ。

「ふみ、お前は父上と俺たちの心がわからないか。お前とおはなとその爺婆は、そっくり松川の家が引き取る」
「兄上、なんてひどいことを」

 酷いのは兄ではない。殿でもない。誰もあなたたちを悪人だなどと思っていない。
 尚次郎は必死に訴えた。

「では誰が、私と式部さまを分けるのですか」
「それは」

 西堀式部は、初めは妻と一緒に刑を受けたいと望んでいたが、落ち着いて事のなりゆきを飲み込んだようだ。
 彼は尚次郎を優しい目で見やった。

「それはこの新野尚次郎が、貴女と夫君を引き離します。西堀式部政偵殿。いざ出ます」
「相分かった尚次郎。手間をかけさせたな」

 爽やかに立ち上がった西堀は、妻を抱きしめると、彼女の兄に渡した。

「ふみを頼む。尚次郎と信士郎、二人で支えてやってくれ。あれは今の今まで、わしと一緒に死ねると喜んでいたのだ」
「嫌です、私を置いて行かないでください」

 兄に抑えられながら、ふみは絶叫した。

「なぜ一緒に死なせてくれないのですか」
「静かに、落ち着きなさい。どんなことになっても侍の妻だという事を忘れてはならない。貴女はこの西堀式部の妻だ」
「分かっています。だから一緒に行こうと」
「お前は後でゆっくりと来なさい。神様の計画は少し変更されたようだ。多分……お前にはまだ、地上でやるべきことがある」

 西堀は落ち着いて尚次郎の後に従った。

「だからそれを全て成し終えた後で、ゆっくり来なさい。わしは皆と一緒にちょっと先に行って、お前の席を整えているから」
「嫌です、置いて行かないで」
「松川殿、西堀殿の奥方は、一時蔵にでも入っていただくように。事が終わったら私が報告に来る」

 尚次郎は、信士郎に指示した。

「ふみ殿、すまない。貴女は死なせるわけにはいかない。落ち着いたら松川家に戻す」

 召使たちに、女主人を見守りけして外に出さないようにと指示し、西堀を連れた尚次郎は屋敷を出た。

「人でなし。尚次郎、お前は善人の面を被った悪魔だ」

 半狂乱のふみの声が屋敷の中から響き、たしなめる兄の信士郎やなだめる乳母、そして女主人を励ます幼いおはなの声が、尚次郎の耳にいつまでもついてきた。

 西堀家からは、召使の追随殉教者はなかった。
 甘糟家同様、二人の小姓がそれぞれ聖母子の旗印と長い燭台に刺した西洋蝋燭を持ち、先導した。
 門が開き、正装の旗持ち小姓たちを先達に、死出の晴れ着の西堀式部が姿を現すと、見物人の中から思わず感嘆の声が漏れた。
 西堀は逞しい長身、そして音に聞こえた美男子で、市中でも有名であった。
 雪もやみ、薄い冬の日差しに積もった雪の壁が輝く中、その偉丈夫は堂々と死出の歩みを始めた。
 後ろには、細工の施された美しい鋏箱を捧げ持った小姓と、首を斬られた後の体を収める棺桶を担いだ召使、そして警護の捕り手たちが続いた。
 尚次郎は西堀のやや前に立ち、刀に手を掛けながら注意深く並んで歩いた。

「最後まで手間をかけさせてかたじけない、新野殿」
「いいえ、これが私の役目ですから」
「……ふみを頼む。あいつは気が強いようで、とても脆くて危なっかしい。あれを兄上と、お前に託す」
「私などには……」
「あいつを守ってくれ。天命で召される日まで。それがわしの最後の望みだ」

 西堀は澄んだ大きな目で、前を行く尚次郎の背中を見詰めた。
 歩き続ける二人を、街の人たちの読経や囁き声が包む。

「……私が承知しても、ふみ殿が拒むでしょう」
「それでもわしはお前に託すしかない。罵られ、憎まれ恨まれるかもしれない。だが後生だ」
「承知しました」

 尚次郎は軽く振り向き、西堀の男らしい相貌を見た。

「あの世とやらに送り出し貴方にお渡しするまで」
「かたじけない」

 西堀は安心した様にうなずき、心なしか足取りも軽く、刑場への雪道を踏みしめて歩いた。
 町内から外れ、刑場への道は次第にただ広く、何もない、清浄な一面の雪原になってゆく。
 その中に、墨絵か影のように、道しるべの松の木、雪に圧された道祖神、ぽつりと立つ寺や祠が目に入るばかりだ。
 先導、西堀式部政偵、検使と警備の武士たち、そしてぞろぞろと続くすすり泣く人々。
 一行が歩いていくうちに陽は高くなり、厳冬の季節には珍しいほどの陽の光が、一面の雪原に降り注いだ。
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