第19話 罪なき者のみ石もて打て・3

文字数 3,793文字

 らい病の小屋で出会った原主水ノ介という武士は元々は旗本の身分、駿府城で徳川家康に仕える武士であった。
 小姓として召し出されて以来その武勇と能力を買われ、若くして御徒士組頭や鉄砲組頭の職に就いた武勇の人である。
 また武勇と同時に信仰の人でもあった。
 13か14歳の頃、大坂でキリスト教に触れた原主水は、宣教師としてその地に赴任していたモレホン神父から受洗し、ヨハネの洗礼名を授かった。
 現在では「ヨハネ原主水」という呼び名がカトリックの世界では一般的である。
 駿府で徳川家康への忠義を尽くし、また城下でキリスト教についてバードレたちから学び、得た知識と信仰を城下の人々に布教する。
 その充実した原主水の日々は1612年3月21日(慶長十七年)突然終わりを告げた。
 江戸幕府がポルトガル船の偽の朱印状、賄賂等の事件発覚により幕府直轄領での禁教令を発布した。
 徳川家御膝下の駿府で堂々と布教活動をしていた原主水の元にも急ぎ役人が迫ったが、すんでのところで追手を逃れ彼は関東に落ちのびた。
 武蔵国の岩槻藩に親族(元々小田原征伐まで佐倉の臼井城で育った)がいたため、それを頼って出奔したのである。
 以降原主水は岩槻に潜み、人々に布教を続けることになる。
 人は逆境にあり始めて自分に秘められた「熱意」に目覚めることがある。
 原の場合がまさにそれであった。
 徳川幕府による切支丹への圧力はさらに過酷さを増し、翌1613年(慶長18年)2月19日、禁教令は幕府直轄地や天領のみならず全国に拡大され、更に「伴天連追放之文」が徳川秀忠により発布された。
 息子の秀忠の名で発布されたものではあるが、徳川家康が起草させ取りまとめたことは明らかである。
 ここにヨハネ(ジョアン)原主水ノ介胤信は追放された。
 江戸に近い岩槻の地にあって、幕府の意向に逆らうことは無理なことだ。
 その点を踏まえれば遠く離れた奥州米沢であったとはいえ、上杉景勝と直江兼続が「我が藩に切支丹は一人もいない」と突っぱねた一件がいかに蛮勇に近い事であったかわかる。

「私が原主水様にお会いしたのは、江戸のはずれ、鳥越にある貧民のための治療院でだ」
「恐れながら、甘糟さまがご自分でお会いになりたかったのですか?」

 もうすぐ江戸市中、湯島の先の「かねやす」という店で、甘糟と尚次郎は休憩をとった。
 江戸の南、麻布台の上杉家中屋敷から休みなく歩き、原主水たち切支丹の慈善の手伝いをしてまたとんぼ返り。いかに若い尚次郎と言えど疲れていた。
 身体だけの疲労ではない。
 尚次郎が切支丹に対して感じる『何か得体のしれない大きなものへの恐れ』が、彼をいつも以上に疲弊させたのだ。
 甘糟右衛門は、近くに人の気配がある時はけして口を開かなかった。
 ここは米沢ではない。キリスト教が禁令となっている江戸なのだ。
 少し休むと、わざと人気のない細い路地を通って甘糟は話を続けた。

 岩槻に潜む原主水は度々江戸を訪れ、当時鳥越にフランシスコ会の宣教師が建てた、らい病の治療院に出入りした。
 だが1613年、伴天連追放令発布と同時に鳥越は幕府の役人に襲われた。
 病人の世話に従事していたもの、彼らの支援者の切支丹、全て芋づる式に捕らえられ、八月十六日、幕府役人の転教を強いる拷問に屈しなかった八名が、翌日は十四名が斬首にて殺された。
 九月十九日にはさらに五名が鳥越川のほとりで斬首刑にあった。
 原主水はまた辛くも逃れたが、禁教令が諸国に発布された後、親族の保護は見込めなかった。
 だが彼は江戸や関東諸国を追手の手から逃れ続け、怯える信者たちを励まし布教を続けた。
 その彼が捕まったのは二年後、1615年である。
 元原家の家臣であった男の密告により、潜んでいた岩槻の裏山にて捕らえられ、手足の指全てを切り落とされ、さらに両足の筋を切断され額に罪人の証、焼き印を入れられた。
 禁を犯した切支丹という事で、彼に焼き付けられたのは十字架であった。
 甘糟と尚次郎が見たのは、不屈の精神力で不自由な手足を克服し、貧困ゆえの病に苦しむ人たちのために働く姿だった。
 甘糟の師、ルイス・ソテロ神父も度々原主水の強靭な精神力と信仰の力を褒めた。
 原の存在は関東の切支丹の間では大きな希望となっていたのだ。

「米沢にもこうした助け合いの組はいくつかある。わしと西堀が組を作り、持てる者が貧しいもの、持たないものを助ける。力のないものも自分らができるところで働く」
「そうなのですか、自分は何も……」
「女も大勢働いているぞ。お前の幼馴染、松川信士郎の妹おふみや、川辺の湯屋で働く身寄りのない湯女もいた。可哀想に心中の片割れとして死んでしまったが」

 甘糟は知ってか知らずか、湯女「ひな」のことを口にした。
 これには尚次郎もぎょっとした。

「そのような事は……私は知らないことにします。今聞いたことも先ほど行った所も全て忘れるようにいたします」
「そうだな。よしんばお前も我々の仲間にと思ったが、今はその時ではなさそうだ」
「ええ。そのような時は永遠に来ないと存じます」

 二人は桜田門の傍に着いた。そこは広大な上杉藩上屋敷。甘糟右衛門が江戸で暮らす屋敷である。

「わしの部屋で夕べの祈りを行うが、見に来んか?」
「いいえ、失礼ながら私はこれで……」

 尚次郎は深々と一礼するとくるりと踵を返し、自分の詰め処、麻布台の中屋敷へ向かった。
 その白い顔はますます青白く、丸めた背はネコのように周囲を警戒している。

『俺は切支丹などにはならない。奴らの、私達が信じる素晴らしいものを理解しない哀れな人、という視線が気に入らない』

 ここは耶蘇教が禁じられている江戸だ。原主水も遅かれ早かれ捕まるだろう。
 尚次郎はその咎が自分や甘糟に、ひいては西堀やふみにまで及ぶことを恐れた。

「あの、お侍様」

 両手を握りしめ黙々と歩く尚次郎に、背後からか細い声がかけられた。

「なんだ」

 まさか幕府の役人か?しかしあり得ない事ではない。
 振り向くと、自分の腰の辺りにも満たない背丈の、童髪の天辺をわらで縛った小さな女の子が驚いた顔で見上げていた。

「何か用か?」

 尚次郎は刺のある表情を緩めた。身なりや汚れていないきれいな顔からして物乞いではなさそうだ。

「お侍様、血が出ています。お着物が汚れてる……」
「え?」
「お手が痛そう……」

 童女の指し示すおのれの左手を見ると、どうしたことか、以前密猟者に矢で射られた古傷が開き、血がどくどくと流れている。
 左手の平だけだったはずの傷は痛みもなく手の甲まで達し、溢れた血で袴と着物の脇がべっとりと汚れていた。

「どうしたのだろう……すっかり治ったはずなのに」

 尚次郎が歩いていたのは人気のない民家の密集する裏道、薬屋などついぞ見かけない辺境である。
 とりあえず懐に入れた手拭いで血を拭き傷口をあらためようとしたが、矢傷を負っていないはずの左手の甲からも血は拭っても湧いてくる。
 困った尚次郎の目に、どこからむしってきたのか童女が一束の草をもって飛び込んできた。

「お侍様、これを」
「これは何だい?」
「血止め草。これをよく揉んで傷に貼ると血が止まるって、母様が教えてくれました」
「ありがとう。やってみよう」
「あたしが揉んで差し上げます」

 童女は小さな手で一生懸命にむしって来た草の束を握りつぶし、ぐちゃぐちゃにもみほぐした。
 お前こそ着物が汚れるではないか……尚次郎はその必死な姿に苦笑した。
 やがて手のひら一杯のすりつぶされた草を、童女は、差し出された尚次郎の手のひらにびっしりと貼り付けた。

「ここをその手拭いで縛ります」

 童女は寒いなか鼻の頭に汗をかいて、懸命に手拭いをぐるぐる巻きつけ、玉結びにした。
 すぐにずれてしまいそうな不格好な結び目だが、膝をかがめて手当てを受けている尚次郎は嬉しかった。

「ありがとう。何も褒美を上げられないのが残念だけど……」
「そんなことはいいの。お侍様はとても痛そうで御可哀想でした」
「これでよくなるよ。お前にこれを教えてくれた母様によろしく」
「はい。母様と、パードレ様に」

 パードレ、それは切支丹が用いる伴天連・聖職者の呼び名だ。
 この子とその家族も……尚次郎は慌てて口に指をあて、静かにと子供を制した。

「パードレなどと滅多なことで言ってはいけない。捕まってひどい目にあうからね」
「おはな!」

 遠くから子供を呼ぶ声がした。

「行きなさい。すまなかったな。恩にきるよ」

 子供はびっくりした顔のまま尚次郎に一礼し、呼ばれた方向に路地を走って行った。
 禁教令が出てからもう数年になるのに、原主水様が手足を斬られて追放されながらも漂泊しながら布教しているそれと同じく、信仰を捨てずに隠しながら生きている庶民がいるのだ。
 尚次郎は江戸の町で「おはな」とその家族が無事でいることを願った。

 暗くなってきた。
 若い侍は足早に麻布台への帰途を急いだ。
 手の傷を覆う血止め草は効いているのかいないのか、青臭い匂いをさせて彼の手を守っていた。
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