恋心

文字数 3,106文字

 昨日降った雪が溶け切らずに残る路地裏で、僕は一人の女性に出会った。
 彼女は肌を刺すよな寒い今日の日に、洗い立ての様に真っ白なワンピースを着てそこに立っていたのだ。
「――誰?」
 不意に彼女は振り向き、その黒く長い髪がふんわりとなびく。
「あなたは誰なの?」
 鮮やかな空色の瞳がじっと僕を見つめ、小さく紅い唇から空に響くような澄んだ声が零れた。
「えっと、僕は――」
 人形の様に整った顔立ちをした女性に問われ、緊張しながら急いで答えよとした僕の目に白い何かが映り込む。それは彼女の腕に大事そうに抱えられた、キラキラと光る翼のようなものだった。
「……羽?」
「ん?ああ、これ?」
 僕の呟きに、彼女が腕の中の物を軽く持ち上げた。
「これはあたしの背中に生えてた羽よ。自分でもいだの」
「え?!もいだ……って」
「あたしね、天使だったの。でも、もうすぐ天使じゃなくなるわ」
 目を伏せて、彼女はまるでそれが嬉しくて堪らないと言いたげに、口元を笑みの形に曲げる。僕にはそれがとても不思議でしょうがなかった。
「悲しくないの?天使じゃなくなるのに……」
「悲しくなんてないわ。全て忘れて人間になるのよ」
「人間に?」
「羽を捨てた天使は地上に落ちて人になるの。でもその代わり、天使だった頃の記憶を全て失くしてしまう。自分を忘れてしまうのよ」
「どうしてそんなこと……」
 自分を忘れてしまうなんて、僕だったら絶対に嫌だ。大切な人のことも思い出も、全部消えてしまうなんて。そう思ったことが全て顔に出ていたのか、彼女が少し困った様に笑って話してくれた。どうしてそんな事をしたのか。その理由を。
「あたしね、人間に恋をしたの。その人とずっと一緒にいるためには、天使じゃ駄目なの。人と天使じゃ生きる世界も時間も何もかもが違うから。天使のあたしじゃあの人の傍にずっといられない。だから、人になるって決めたの。人じゃなきゃ駄目なのよ」
「そうだったんだ。……でも、その人は知っているの?あなたが好きな人は、そのことを知っているの?」
 ふと思った疑問を口にすれば、彼女の首が静かに左右に振られた。
「知らないわ。だってあたしが勝手に好きなだけだもの。だから、人になるのもあたしの勝手」
「そんな!ダメだよ、ちゃんと伝えなきゃ!!その人が知らなかったら、お姉ちゃんが人になる意味がないじゃないか!!!」
 力いっぱい叫んだ僕に、彼女はただ優しく目を細めて微笑むだけだった。
「ありがとう、心配してくれて。でもね、人間になって何もかも忘れても、あたしは必ずまたあの人のことを好きになるわ。初めて出会って、そして恋をするの。新しい恋よ。人間になって初めてのあたしの恋」
「新しい、恋」
 希望に満ちた瞳で話す彼女の言葉に、噛締める様に呟いた。
 そんなことが本当にできるのだろうかと考えて、それでもきっと彼女ならば叶えられると思った。好きな人のために天使であることも羽も、自分の記憶さえも捨ててしまえる強い彼女ならばきっと成し遂げるだろう。それはきっと幸せなことで、同時にとても切ないこと。
「うん。きっとお姉ちゃんならできるよ。きっと幸せになれる。僕、応援するよ!」
 だから僕は、精一杯の笑顔で彼女へとエールを送る。
「ふふっ、ありがとう。優しいのね」
 そう言って嬉しそうに微笑んだ彼女の艶やかな髪に、ふんわりと舞い落ちる白いものがあった。
「…あ、降って来た!」
 思わず叫んで空を見上げた僕の上に、その白いふわふわの塊が後から後から降って来る。手を伸ばしてその粒の大きさを確かめながら、また積もるかどうかそんな事ばかり考えてしまう。そんな僕の耳を、クスクスと小さな笑い声がくすぐった。顔を向ければ、天使のお姉さんが楽しそうに笑って僕を見ていた。何を笑っているのか分からず首を傾げると、その笑みがますます深くなる。
「心配しなくてもちゃんとこの雪も積もるわよ。きっと明日の朝起きたらびっくりするわ。それぐらいたくさんね」
「本当?」
 考えていたことの答えを返されて、目を丸くしながら聞き返す。そんな僕に彼女は笑顔で頷いた。
「もちろんよ。これでもまだ、ちょっとだけ天使の力が残っているのよ。だから、少しだけなら明日のことも分かるの」
「凄いね、お姉ちゃん!じゃあ僕、明日は皆を誘って雪だるまを作ろう!」
 明日の事を考えてワクワクと心躍らせる僕とは反対に、彼女の顔から笑みが消えた。そうしてスゥッと深呼吸をしてから、何かを決意したように僕を見据えた。
「…ねえ、一つだけお願いがあるの」
「なぁに?」
 妙に改まった態度に、僕もニヤニヤ顔を閉まって真剣に彼女を見返した。
「あたしは君のことを忘れてしまうけど、君は覚えていてね。君とこうして言葉を交わした天使のあたしがいたことを。そして、恋をして羽を失い、人になったあたしがいたことを。ちゃんと覚えていて欲しいの」
 強い決意を秘めた綺麗な瞳の奥で、切ない光がチカチカと瞬いている。後悔はしていないと彼女は言った。けれどもそれと、失ってしまう悲しさは別のものだ。泣き笑いの天使が、抱えていた翼から一本だけ羽根を引き抜き僕の方へと差し出した。
「ここで天使に出会った記念よ。それと、あたしの新たな旅立ちの、ね」
 涙交じりの声に一つ頷き、差し出された淡く光る羽根をそっと受け取った。良く見れば、それは真っ白というよりも薄い真珠色をしている。
「わあ、綺麗!ありがとう、お姉ちゃん。大切にするよ!!」
 そうお礼を述べて、この世のどんな鳥にもない輝きを放つ羽根をそっと両手で包み込んだ。そんな僕を見て、安心したように涙を拭い小さく微笑んだ彼女が、不意に耳を澄まして黙り込む。彼女に習って耳を澄ますと、遠い街の中心で午後三時を告げる鐘の音が聞こえて来た。
「ああ、もう行かないと。汽車の時間に間に合わなくなっちゃうわ」
「どこかへ行くの?」
「ええ。あの人がいる町へ行くの。ここからずっと北の方になるのだけど、今の内に少しでも傍へ行っておきたから」
 そう嬉しそうに言うと、いつからそこにあったのか大き目の旅行鞄を手に取った。その代わり、今まで抱えていた二枚の翼が跡形もなく消えていた。まるで空気に溶けてしまったかのように。それでもそのことを少しも気に止める様子が彼女にはなかった。
「それじゃあ、忘れちゃうけど…会えて嬉しかったわ」
「僕も。僕もお姉ちゃんに会えて嬉しかった。全部、忘れないよ。絶対に」
 答えてにっこりと笑った僕に、彼女の瞳が一瞬切なそうに揺れる。そうして小さく「ありがとう」と呟く声が聞こえた。けれどもそれもすぐに笑顔の下に隠すと、くるりと背を向けて駅の方へと歩き出した。その一瞬で、彼女の姿が何処にでもいるコートを纏いブーツを履いた一人の女性へと変わっていた。瞬きする間もない出来事に、僕は驚き目を凝らした。その視線の先を希望に満ちた力強い足取りで、天使だった女性は一人の人間として振り返ることなくその道を歩いて行く。僕は貰った羽根を大事に握り締めながら、その背中が見えなくなるまで見送った。
 彼女が必ず、愛する人の隣でずっと笑っていられますように。そう、願いながら。

 次の日、窓を開けたら外は一面の真っ新な銀世界だった。
 僕は彼女に宣言した通り、皆を誘って遊ぼうとワクワクしながら家を飛び出した。そうして遊び疲れて眠る時、彼女の事を皆に話してあげるんだ。ちょっとだけ不思議でちょっとだけ切ない、人間に恋をした天使の話を。

  おしまい

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