優しい忘れ物

文字数 3,344文字

 その街には貧しいけれども心のとても優しい少年が、母親と二人きりで暮らしておりました。誰にでも優しく親切に接する少年は、街でも評判の良い親孝行な息子でした。しかし、なんと言っても貧しい家の生まれです。明日を生きて行くための食べ物さえない状況でも、少年は誰彼世話を焼くことを止めませんでした。
 そんなある日、少年は母親が連日に渡って吹いた冷たい北風のせいで、悪い風邪を拗らせてしまいました。少年は寝ずの看病を毎日続けておりましたが、病状は一向に良くなりません。薬を買うお金もなく、日に日に衰弱して行く母親に少年は困り果ててしまいました。
「どうしよう…このままでは母さんが死んでしまう!でも、お金もないし……いや、悩んでいてもしかたない。とにかく、街中の薬屋さんに掛け合ってなんとか薬を少しでもいいから分けてもらおう!」
 そう決心すると、少年は街中を駆け回り全ての薬屋を回りました。けれども、この連日の寒さで同じように体調を崩した人々で、薬屋には風邪薬を求める長蛇の列ができておりました。とても薬を分けて貰える雰囲気ではありませんでした。肩を落として疲れた足を引きずるように帰路についた少年に、不意に道の端から声がかかりました。力なく、それでも顔を上げた少年は、そこにつばの浅い黒い帽子を目深に被った黒ずくめの男が一人ちんまりと立っているのを見つけました。黒いスーツに身を包み、黒い光沢のある革靴と鞄を片手に提げています。男は少年ににんまりと笑みを向けると、ちょいと帽子を脱いでお辞儀をしました。
「どうも、こんばんは」
「こ、こんばんは……」
 点灯し始めた街灯の下で、男はそう言いながら少年へと数歩歩み寄りました。
「あの、僕に何かご用ですか?」
 恐る恐る少年が尋ねると、男はまた口元を笑みの形に歪めました。
「いえね。お困りの様だったので、私に何かできることがあればと思いまして。お声をかけさせて頂いたのですよ」
「はあ。それはどうも、ご親切に。有り難うございます」
 少年が釈然としないながらも、素直に親切を喜び深々と頭を下げました。
 すると、男は「とんでもない!」と慌てた様子で首を横に振りました。
「あなたが日頃、街の人々にされている親切に比べればこんなこと!小さな事です」
「僕のことを、知っているんですか?」
 驚いて聞く少年い、男はこっくりと頷き胸を張りました。
「ええ。あなたは街一番の親孝行息子ですからね。知らない人なんていませんよ」
「そう、でしょうか?」
 恐縮する少年に、男はにっこりとまた笑みを浮かべました。
「そうですよ」
「……でも、折角ですが僕の家にはお金がないので、何も買う事はできませんよ?」
 申し訳なさそうに「ごめんなさい」と頭を下げた少年に、男は片手を左右に振りました。
「いえいえ。お金は要りません。むしろ、私がお金を差し上げたいのです」
「……どう言う事ですか?」
 訝しげに首を傾げた少年の前で、男は手に持っていた黒い鞄を開きました。そうして、一体どこにしまっていたのか三十センチほどの小さな陶器の壺を一つ取り出しました。
「……これは?」
 手渡された壺を、少年はしげしげと眺め尋ねました。首の長広口のその壺は、どこにでもある花瓶のようにも見えました。ただ、その胴体の両側には真っ直ぐに線が入り、一度割れたものを修繕したようでした。
「それは、お金が出て来る不思議な壺です。あなたが欲しい時に欲しいだけ、願えばお金が出てきますよ」
「お金が?それは、本当ですか?」
 男の言葉は俄かに信じ難く、少年は手元のひびが入った壺をじっと見つめました。お金が出てくる云々はともかくとしても、売れば風邪薬を買うお金ぐらいにはなりそうです。少年は男に丁重にお礼を言ってその場を後にしました。

――それから数年が経ちました。

 その街には、お金持ちでとても意地の悪い青年が一人住んでおりました。以前は母親と二人暮らしでしたが、その母親も六年ほど前に悪い風邪を拗らせ長い闘病の末に亡くしておりました。それ以来青年は街の高台に建てた大きな屋敷に、たくさんの使用人を雇って贅沢な暮らしを続けておりました。
 ところがある日、それまでずっと青年に酷い嫌がらせを受けていた街の人々の怒りが爆発しました。人々は手に手に少年を傷つける道具を持ち、屋敷へと雪崩込みました。贅を尽くした青年の屋敷は、人々の手によって滅茶苦茶に壊され、終いには燃やされて灰になってしまいました。あのお金を生み出す壺も、その時に真っ二つに割れて綺麗に溶けて消えてしまいました。青年も街の人々に散々殴られ蹴られ、ボロボロになりながらも、命からがら逃げ出しておりました。
 薄汚れて捨てられた麻の布を頭からすっぽりと被り、拾った木の棒に縋りながらヨタヨタと暗い夜の裏路地を歩いていた青年は、ふと誰かに呼ばれた気がして足を止めました。そうしておっかなびっくり振り返ると、目の前に黒いスーツを来た男が一人立っていました。
「お、お前は……!!」
 男は被っていた黒い帽子をちょいと上げて挨拶をすると、青年の頭から爪先まで眺めてにんまりと笑いました。
「お久し振りです。それにしても…随分と酷い格好をしていらっしゃる」
「そうなんだ!聞いてくれよ!!急に街の奴らが人の屋敷に押し入って来て、俺の屋敷を滅茶苦茶にしたんだよ!!!」
「おやおや、それはそれは……難儀でしたね」
「全くだ!今まで、散々この街のために金を出してやったというのに!」
 そう言って腹立たしげに地団太を踏む青年に、男はちょっと考えてから持っていた鞄を開きました。中から取り出したのは、四角い白い木で作られた小さな箱でした。
「……なんだ、それは?」
「オルゴールです」
「オルゴール?」
「ええ」
 聞いておきながら青年の興味無さげな声に、男は頷きそっと蓋を開けました。流れ出したのはなんとも言えない優しく美しい曲でした。その曲を聞いた途端、青年の中に忘れていた昔の記憶がたくさん甦って来ました。風船が木に引っかかって泣いていた女の子,道端で雨の中鳴いていた子犬,思い荷物を背負って困っていたお爺さん。そして、「迷惑をかけてすまないね」といつもすまなそうに微笑んでいた母さん。その全てが、『ありがとう』と青年に告げてふんわりと消えて行きました。
「これは…俺は……」
「これは六年前、私から壺を受け取った時に、ここへあなたが置いて行ったものです」
「俺が?そんな馬鹿な。あの時の俺に、オルゴールなんてそんな高価なものはとてもとても……。何かの間違いじゃないですか?」
 困った様に眉をひそめる青年の顔に、もう先程までのお金だけに囚われた貪欲な色は少しもありませんでした。その様子に、黒いスーツの男はにっこりと笑みを浮かべると、青年の手にそっとオルゴールを乗せました。
「…とても優しい曲ですね。これは、なんという曲ですか?」
「名前などありません。それは、あなたが六年前まで心の中にいつも奏でていた優しさという名の音色です」
 男の言葉に、青年は手の中のオルゴールを愛しそうに見つめました。そして不意にその顔を悲しみに歪めると、ポロポロと大粒の涙をこぼしました。
「ああ、自分はなんて愚かだったのだろう。ちっぽけな欲に囚われる余り、大切な人を苦しみと悲しさの中で死なせてしまうなんて……!ごめん…ごめんなさい、母さん……!!」
 青年は今までの自分の行いを恥じました。けれどもすでに失ってしまったものは、もう青年の手の中に戻って来ることはありませんでした。

 それからというもの、青年は昔の優しい自分を取り戻し、残りの人生を助けを求める人々を救うために費やしながら静かに暮らしたということです。そんな青年の傍らにはいつも、あのオルゴールが大切に飾られておりました。あの日一度鳴って以来、蓋を開けてももうオルゴールがあの曲を奏でる事はありませんでした。けれども青年は知っていました。優しい音色はこれからもずっと、奏でられて行くことを。そしてそれは、誰でもない自分自身が奏でて行くものだということも。

 おしまい

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