月夜の丘の停留所

文字数 2,955文字

 それは満月の夜のことでした。
 青白く光る月はいつもよりもずっと華やいで見えて、暗い夜の闇をほんのりと明るく照らしていました。そんな明るい夜に、小高い丘の細い道を一人の少年が登って来ておりました。少年が一歩一歩進む度に、ズボンのポケットからチリチリンと鈴の音が零れます。
 少年の両親は共働きで、いつも時計の針が夜八時を過ぎないと帰って来ません。ですからいつも少し離れた祖父母の家へ学校帰りに寄り込んで、両親が返って来る頃になると自分の家へと帰ることにしていました。その日はいつも車で家まで送ってくれる祖父に急用が出来てしまい、少年はそれ程遠くない距離を歩いて帰っておりました。免許を持たない祖母の付き添いの申し出は、杖を突くその姿に少年が反対に心配になってしまい断っておりました。それにずっと前から、こんな夜の道を一人で帰ってみたいと思っていたのです。
 最初はドキドキワクワクしながら歩いていた少年でしたが、丘の辺りに差し掛かる頃になると少し心細くなってきてしまいました。
「……やっぱり送ってもらえば良かったかな?」
 戻ろうかとおもいながら丘の頂上まで辿り着いた少年は、そこにたたずむ一人の女性を見つけました。腰まである黒く艶やかな髪に真っ白なワンピースが印象的なその人は、一心に空を見上げて何かを待っている様に見えました。何故こんなところにいるのか不思議に思い、少年は心細かったのも忘れて女性に声をかけました。
「あの、こんばんは」
 そろりと声をかけると、女性がゆっくりとこちらを見ました。
「こんばんは、坊や」
 そう言ってにっこり笑うと、また空を見上げました。少年は女性の横に並んで同じように空を見上げてみましたが、そこには星の瞬く夜空しか見えませんでした。
「お姉さんはここで何をしているの?」
「バスが来るのを待っているのよ」
 少年の問いかけに、女性は変わらず夜空を見上げたまま答えました。
「バス?」
 少年の頭の中に、いつも家の前を通る赤い線の入った車体のバスが浮びました。こんな所にバス停などあっただろうかと辺りを見回しましたが、それらしいものはどこにも見当たりません。
「何をキョロキョロしているの?地上なんて見回しても、バスは見つからないわよ?」
 女性は少年の不可解そうな様子に気づき、クスリと小さく笑みをこぼしました。
「それじゃあ、どこから来るのさ」
「月からよ」
 少しムッとした様な少年の声に、女性は笑みを浮かべたまま月を指さしながら言いました。
「月……って、空にあるあの“月”?」
 目を見開き同じように月を指して聞く少年に、女性は頷きます。
「そうよ。そしてここは、その停留所なの」
「停留所……。お姉さんは月の人なの?」
 少年は女性を見つめて、やっとそれだけ言いました。その瞳は、まだ信じられないという思いで溢れています。
「そう。あたしは月に住んでいる、月の住人。表面には見えないけれど、あそこには都があるのよ。小さいけれど、一つの国があるの」
「本当?!本当に、月に人が住んでるの?!!」
 頬を染めて興奮しながら叫ぶ少年に、女性は苦笑を浮かべながら再度頷きました。
 月にも地球みたいな国がある。それは俄かには信じ難いことです。しかし地球にも人や動物が生きているのです。月にだって人が住み、都があったとしても不思議なことではないかもしれない。少年はそう考えて一人納得しました。
「じゃあ、お姉さんはどうしてここにいるの?地球に用事があったの?」
 少年の問いかけに、女性は悲しそうに目をふせました。
「うん。……実はあたし、十二歳になるまで地球で生活していたの」
「え、地球に住んでいたの?どうして?」
 少年の心底不思議そうな声に、女性はうーんと唸り思案しました。
「あたしね、最初間違って地球に産まれちゃったの。月の人ってちょっとせっかちでね、時々そんな間違いを起こす事があるのよ」
「へぇ、それは大変だったねお姉さん」
 眉をひそめ自分の事のように辛そうな顔をする少年に、女性はにっこりと笑いました。
「ええ。でもね、あたし今そのおかげでとても幸せなのよ?」
「えっ、どうして?」
「だってね。あたし地球にも月にもたくさんの友人が出来たのよ?それに、一年に一回だけ地球へ降りる許可ももらえたの」
「でも、お姉さんが月に帰ってしまって、地球のお父さんやお母さんは寂しくないの?」
「……そうね。とても寂しそうだった。でもね。月の住人であるあたしと地球の両親の間には、流れる時間が違うのよ。たとえ地球に残ったとしても、あたしが先に死んでしまう運命だったの。そんなことになれば、あたしは月の家族も地球の家族も悲しませることになってしまう。だから、帰ることを選んだの。会えるのが一年に一回だけだとしても、あたしはその選択を後悔したことはないわ」
 半分涙声になりながら言葉を紡ぐ女性に、少年は黙って見つめることしか出来ませんでした。それでも何とか元気になってもらいたくて、少年は口を開きました。
「お母さんがね、悲しい事があったら思いっきり泣きなさいって言ってたよ?そしたら全部、涙と一緒に出て行って次の日にはまた笑えるからって。だからお姉さんも、思いっきり泣いていいんだよ?僕、見ないから大丈夫だよ?」
 そう言って目を閉じた顔を下げた少年に、女性は優しい笑みを顔いっぱいに浮かべました。そして、そっと少年の頭を優しく撫でました。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
 その声に少年が目を開き顔を上げると、優しく笑う女性とパチリと目が合い一瞬ドキリとしました。
 その時です。

 プップーッ!

 不意に空から聞こえて来たクラクションに、二人そろってそちらを見上げました。そこにはゆっくりとこちらへ向かって降りて来る、青いバスの車体がぼんやりと夜空に浮かんでおりました。
「バスが来たみたいね」
 バスは丘の上まで来ると、緩やかな曲線を描いて少年たちの前にふわりと止まりました。プシュッという音と共に、バスのドアがゆっくりと開きます。
「……お姉さん、もう行くんだね」
 バスの入口へ一歩近づいた女性の背に、少年の小さな声がかかりました。その寂しそうな声に、女性は足を止め少年を振り返りました。
「ええ、行くわ。月の家族や友達が待っているもの」
「……そうだよね。うん。僕も帰らなくちゃ。お父さんとお母さんがきっと心配してる」
 寂しさを吹き飛ばすように、少年は真っ直ぐに顔を上げて笑みを浮かべました。でも、女性の顔を見るとやっぱり少しだけ寂しくなってしまいます。
「元気でね」
「うん。お姉さんも、元気でね」
 女性はにっこりとほほ笑むと、向き直ってバスへと乗り込みました。短い発射の合図と共に、女性たった一人を乗せた青いバスは、ゆっくりと月へ向かって出発しました。少年はその姿が小さな点になるまで手を振って見送ると、家への帰路を駆け足で下りました。少年のズボンのポケットから響く、チャリチャリ、チリチリと金属のぶつかる音だけが夜の帳が降りた空へと吸い込まれて行きました。
 それは、静かな満月の夜の、不思議な不思議な出来事でした。

 おしまい

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