僕と天使

文字数 3,210文字

 僕らの町にサーカスがやって来た。円形の薄暗いテントの中で、普段なら絶対に見られない奇妙な技の数々が披露されて行く。小さな小さな道化師のナイフジャグリングや、幼さの残る少女が凶暴な熊の曲芸などなど。どれもこれも素敵だけど、僕の一番のお気に入りは天使の女の子の透き通る様な歌声だった。聴いていると、自分が雲になって空に浮かんでいるような気分になれる。それは僕にとってとても幸せな一時。だけどそれも一瞬のこと。歌が終われば現実が返って来る。内気で愚図で、いつものどうしようもない僕が返って来るんだ。出来ることなら天使の歌う歌のように、僕の勇気も魔法になればいいのに。

 “御伽の国ではないけれど 魔法が私に使えたなら
  私は遠くへ行けるのに 勇気が魔法になるならば、
  私の魔法は誰よりも強い 魔法は勇気、勇気は魔法――”

  * * * * *

 次の日、昨日聴いた天使の歌を口ずさみながら僕は学校へ向かった。だけど僕は、学校へ行くことは出来なかった。道の途中で、いつも僕を虐めるティダに会ってしまったのだ。何も言えないままズルズルと引きずられ、学校裏の楓の木の下へと連れて行かれた。
「お前、サーカスにいる天使の女のことは知ってるか?」
 震えそうになるのを必死で耐えて、僕は首だけを縦に振って答えた。
「よし。なら、ここへその女を連れて来い」
「……え?」
 ティダの言葉に、僕は目を丸くした。
「何だ?文句でもあるのか?」
 そう言って睨むティダに、僕は慌てて首を横に振った。だけど、そんなの無理に決まっている。きっと天使の女の子は会ってもくれないだろう。でも、ティダはそれが無茶だと知って言っているのだ。連れて来られなければ、いつもの様に僕を酷い目に合わせる。それはそれで、良いと思っているのだ。どちらに転んでも、ティダには得しかない結果だから。
「おい!聞いてるのか?!分かったのなら、さっさと行けよ!!!」
 ぼんやりとそんなことを考えていた僕は、ティダの怒鳴り声で一気に現実へと引き戻された。相変わらず睨むティダに緩く頷いてから、僕は広場へ向けて元来た道をふらふらと走り出した。

 息を整えながら見上げたテントは、ひっそりと静まり返り、昨日の賑わいが嘘のようだ。閉じられた入口を通り過ぎ、関係者以外立ち入り禁止の札がかかる脇のロープをそっと潜る。目隠し代わりに積み上げられた木箱の隙間をすり抜け、テント裏へと辿り着く。そこには曲芸で使う小道具の入った箱が無造作に置かれ、団員達が休むための移動式コンテナが停めてあった。大きな猛獣の檻からは、震えあがりそうな唸り声が聞こえている。勝手に入ってしまった罪悪感と、物珍しさに逸る好奇心で心臓が痛い程に鳴っていた。胸に手を置きながら、辺りを見回していた僕の目に、ほんの少しだけ開いているテントの合わせ目が留まった。周りに誰もいないことを再度確認してから、そっとテントの中へと体を滑り込ませる。テントの中は薄暗く、照明を落としたステージには誰の姿も見当たらない。
「…どこにいるんだろう?」
「――誰を探しているの?」
「?!!」
 いきなり背後から声がかかり、慌てたせいか振り向き様にバランスを崩した。そのまま尻から地面に倒れて、思いの外辺りに響いたドスンという音にまた少し慌てた。
「……大丈夫?」
 痛むお尻を擦りながら見上げれば、あの天使の女の子が僕を呆れ顔で見下ろしていた。その背に今は羽が見当たらない。
「……本物じゃなかった?」
「え、何?何か言った?」
 小さくこぼした言葉を耳ざとく聞き付けた少女に、僕は首を横に振って苦笑いを浮べた。
「もう、何よ。ヘラヘラして。…それより、立てる?」
 そう言って差し出された手を遠慮がちに握った。情けない事に、女の子に助け起こされてしまった。
「どうでもいいけど、ここは関係者以外立ち入り禁止のはずよ?」
「……ごめんなさい。でも僕、どうしても天使のあなたに会わなければならなくて……」
「私に?何で?悪いけど、私はあなたのことなんて知らないわよ?」
 僕はしばらく迷ってから、ティダに頼まれたことや自分が彼に虐められていて逆らえないことを全部話した。
「ふーん…で?あなたはそのティダって子に、一度でいいから言い返したことはないの?」
「ないよ!そんなことしたら、一体何をされるか……!!」
「じゃあ、あなたはこの先もずっと、ティダって子に虐められ続けて終わりなのね」
「そんなっ!!」
 彼女の言い方に、僕は思わず大声を上げてしまった。ハッとして慌てて口を押えると、少女が呆れた様に溜息をついた。
「だってそういうことじゃない。やってもいないのに、逆らえないって決め付けているんですもの。逆らう事なんていくらでも出来るわ」
「それで…酷い目にあったら?」
「合わなくなるまで戦うの。いい?何事もやってみなくちゃ分からないものなの。だから、やってみるだけやってみなさいよ。第一、酷い目酷い目ってあなた言うけど、今も酷い目にあわされているのなら何か変わるの?」
 彼女の言葉にハッとした。彼女の言う通りだ。“酷い目”とその事ばかりに囚われて少しも気づかなかった。逆らわなくても逆らっても、きっと“今”と“この先”は何も変わりはしない。
「君の言う通りだ。今のままでも逆らった後でも同じだね」
 そう言って苦笑いを浮べた僕に、天使の子が笑みを浮かべて頷いた。
「そうよ。変えられるなら、今から変えていかなきゃ。ね?」
「うん。…ありがとう。僕、頑張ってみるよ」
 今日、初めて言葉を交わした彼女に勇気を貰って、僕も笑顔で頷いた。

 結局、彼女を僕がティダの下へと連れて行くことはなかった。それが、ティダへの最初の反抗になった。誰も連れて帰らなかった僕は、ティダに怒鳴られて殴られた。けど、僕も負けずに弱いながら一発だけパチンとその頬を叩いてやった。それが僕の、ティダへの二つ目の反抗になった。

「……本当に頑張ったみたいね」
 帰り道。広場に近い商店街を歩いている時、昼間聞いた澄んだ声が背後からかかって振り返った。声の主はやっぱり天使の彼女で、僕の絆創膏と青痣だらけの顔を見て自分も痛そうに顔を歪めた。
「酷い顔ね。大丈夫?」
「大丈夫だよ、これぐらい。殴られるのには慣れてる。それに、君を連れて帰らなかった時点で怒られることは分かっていたよ。どうせ殴られに行ったんだし、丁度良かったよ」
 そう言って肩を竦めてお道化て見せると、彼女の顔から心配そうな色が消えて笑みが戻った。
「言った通りだったでしょ?何事も、やってみなくちゃ分からないものよ」
「本当だね」
 僕らはお互い顔を見合わせて、クスクスと笑い合った。

  * * * * *

 次の日、サーカスは町から去って行った。それも突然に。昨日までテントのあった場所へ行ってみたら、そこには何もなくなっていた。引き千切られた華やかなポスターの残骸だけが、狂ったように風に舞っていた。
「ありがとうって、言いそびれちゃったな……」
 僕の中から臆病な悪魔を連れて出してくれた天使は、今頃どこかでまたあの歌を歌っているのだろうか。あの奇妙で騒がしいサーカスは、一体どこまで行くのだろう?
「……世界一周でもしたら、また会えるかな?」

 “御伽の国ではないけれど 魔法が僕に使えたなら
  僕はいつでも君に会いに行けるのに 勇気が魔法に変わるなら
  僕は勇気で全てを変える 勇気は魔法、魔法は勇気――”

 天使の歌を自分なりの歌詞で口ずさみながら、僕は広場を後にした。
 学校ではきっとあいつが待っている。頭いっぱいに怒った気持ちを詰め込んで。
 でも僕は負けない。だって勇気は、僕の心に強い強い魔法をくれるのだから。

 おしまい

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