僕とイオ

文字数 1,861文字

 僕がまだ小さかった頃、僕には特別仲が良かった友達が一人いた。それは駅前の喫茶店の常連さん。家への帰り道にその喫茶店があって、窓側の特等席で外を通る人々をいつも眺めていた。初めは何気なく通り過ぎていたのだけれど、ある日ぱっちりと視線が合って、彼女がふんわりと笑ったのが始まりだった。
「いつもここを通るけど、お家への帰り道かなにかかい?」
 お店から出て来た彼女は、もじもじしている僕に向かって柔らかな笑みを湛えて尋ねた。
「うん。僕の家、ここから真っ直ぐ行って幼稚園の角を右に曲がったところなんです」
 声をかけてくれたことが嬉しくて、僕は張り切って自分の家までの道程を説明した。喫茶店のある細い路地を出ると、直ぐにぶつかる車のたくさん行き交う大通りを渡って、なお真っ直ぐに伸びる細い路地の先。そこにある幼稚園の角を右に曲がった所にあるのが僕の家だ。
「へぇ、そうなのかい」
 僕が勢い良く指さした路地を眺めながら、彼女は細い目を更に細めた。山の端に隠れかけた夕陽に照らされて、彼女も僕も茜色に染まっていた。その横顔がちょっとだけ懐かしそうで、それでいてちょっぴり寂しそうだったのを今でも良く覚えている。
 たったそれだけの会話だった。けれども、僕らが友達になるには十分な出会いだった。
 それから毎日、僕は喫茶店へと寄り込むようになった。そこに行けば彼女に会えるから。そこでしか会えないから。彼女――名前を聞いたら“イオ”と教えてくれた。それはとても大切な人から貰った名前なんだと、嬉しそうに笑っていたのが印象に残っている。そんな大切な名前を呼べることが、僕もとっても嬉しかったんだ
 イオは僕の知らないことをたくさん知っていて、毎日毎日僕に話して聞かせてくれた。僕もそれが楽しくて、一生懸命耳を傾けた。今、僕が皆にたくさんのことを教えてあげられるのも、イオのおかげなんだ。
 通っている内に、喫茶店のマスターとも仲良しになった。鼻の下にちょっとだけ残された髭が気になって、ついついその顔をじっと見つめてしまったことがある。そしたらマスターは笑いながら「意地みたいなものなのさ」と教えてくれた。意地でちょこっと髭を残すぐらいなら、もっとたくさん残せばいいのに……。教えてもらっても、やっぱりよく分からなかった。
 そんな日々が続いたある日。僕の家を、イオが突然訪ねて来た。びっくりしたけど来てくれたことが嬉しくて、僕が家の中で一番お気に入りの場所へ案内した。
「僕の家がここだって、よくわかったね!」
「ああ。以前教えてもらったからね」
 縁側に並んで座って、二人で空を見上げた。今日は満月。大きくてまん丸な月と煌めく星の光が美しい夜だ。そのまま何も言わないイオを、僕はこっそりと盗み見る。薄く青い月の光に照らされたイオは、光を纏って淡く霞み、目を離したら消えてしまうんじゃないかと思って僕は急に怖くなった。
「……ねえ、イオ。何かあったの?」
 思い切って声をかけた僕に、イオはただ笑った。
「通りかかったから、少し寄っただけだよ」
 それだけ言うと、また空を見上げた。何もしないで、何も話さないで。ただ、ただ、僕たちは夜空を見つめ続けた。そんな僕たちを、たくさんの星とたった一つの月だけが、静かに見下ろしていた。
 次の日、喫茶店に寄ってみると、イオの姿がなかった。何か用でもあったんだろうと思い、その日は家に素直に帰った。けれども、次の日も次の日もその次の日も、イオはそこにいなかった。一週間経っても、二週間経っても、イオは姿を見せなかった。
 どうしたんだろうと不安になって、カウンターの向こうでのんびりとカップを磨くマスターに訴える。でもマスターは悲しそうに眉毛を下げて、ただ僕の頭を優しく撫でるだけだった。そうしていつも決まって、一言だけ言葉にする。それは僕に言っているというよりも、自分に言い聞かせているようにも僕には見えた。
「いつも悪いな、ちびすけ。イオはきっと、もうここには帰って来ないだろうよ。結構な年だったしな。……何より、猫は人に死に姿は見せないって言うしな……」

 そうしてイオがいなくなって、どれだけの日が過ぎて行ったのだろう。あの頃はまだ小さくて子供だった僕も、今ではすっかりイオよりも大きな大人になった。相変わらず、僕は毎日毎日駅前の喫茶店に足を運んでいる。今では僕が立派な常連さん。窓際の席を陣取って、外の通りを眺めている。そうしていつか誰かと目があったなら、あの時イオがしてくれたように、笑顔で挨拶してみようかな?

 おしまい

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