白く冷たい

文字数 2,670文字

 さくっと踏み込んだ雪は、足の下でズブズブと沈み、私はその感覚に楽しみを覚えて更に体重をかける。かけた分だけ更に雪が沈み込み、私がふと自分の足が抜けない事に気がついたのと同じ時。
「ねえ、ちょっと。そこ、僕のだからどいてくれない?」
 良く通るソプラノボイスに振り返れば、所々寝癖で跳ねた漆黒の髪の少年が一人そこに立っていた。凄く不機嫌そうに、ジッとこちらを睨みつけている。
 だから私は、
「ここが君のものだって言う、証拠でもあるのかな?」
と、我ながら意地の悪い言葉を返してニヤリと笑って見せる。すると少年は、寒さで赤くなった鼻をスンと啜って「ないよ」と小さく答えた。その言葉に私が勝利の笑みを再び浮かべようとするよりも早く「けど、そこは僕の所なんだよ。ずーっと前から僕のものなの!」と譲らない。
「君、中々しつこいね」
 思わず苦笑を浮かべた私に構わず、少年はそれでも真剣そのものだ。真冬に着るにしては少々薄手なコートから覗く、手袋をはめていない手がギュッと強く握られている。
「しつこくても、そこは僕のなんだよ……どうしても……」
 しっかりとした、少年とは思えない程強い声に言いかけた反論を呑み込んだ。驚きと戸惑いでじっと見つめていた少年の顔が、今にも泣き出しそうなくらいに曇っている事に気づき焦った。
「待って、ちょっとタンマ!」
 焦り過ぎて口から飛び出した子供じみた言葉に、頬の赤い少年が不思議そうに私を見た。その表情から先程までの泣きそうな気配は、綺麗さっぱり消えている。内心ホッとしながら、ヘラリと締まりの悪い笑みを浮かべ膝まで埋まった自分の片足を指さした。
「ごめん、実は抜けないんだよ。足が」
 だから動けないと言うよりも早く、少年が大声を上げて笑い出していた。お腹を抱えてという表現がまさにピッタリと当てはまる豪快な笑い。これには流石に私も驚いて、暫くその姿をポカンと見つめてしまった。
「あはは…ははっ……ご、ごめんなさいっ。でも、足が、抜けないって…くくっ。自分で入ったのに!」
「も、もういいだろ?!いい加減、笑い過ぎだからっ!!!」
 目尻に涙まで溜めて尚も笑う少年に、私は顔を真っ赤にして効力のない叫び声を上げるしかなかった。悔し紛れに何とか抜けないものかと足を再度動かしてみたが、余計に埋もれてより深みへとはまる一方だった。
「あー。ダメダメ。そんなことしても足は抜けないよ」
 そう言うと、少年が笑みを消してスゥッと目を細めた。
「そんなことをしてもね、どんどん捕まっちゃうだけだよ。捕まったらさ、もう二度と…離してもらえないんだよ……」
「え?」
 スッと助けるために伸ばされた手を思わず握った。それは驚くほどに冷たいもので、一瞬ビクリと体を震わせてしまった。それでも、雪に体温を奪われた私の足に比べれば程よい温もりを湛えている。
「じゃあ、“せーの”で引っ張るからね?」
「うん、了解」
 ちらりと向けられた視線に頷いて答える。私と少年は“せーの”のかけ声と共に、私の足を何とか雪から解放しようと踏ん張った。少年が引く腕の筋はピンと伸びて少し痛みを訴える。
「うぐぐっ……ちょっと、どれだけの勢いで雪に入ったのさ!全然、抜けない!!」
「えーっと……入った上に、全体重をかけて更に……?」
「え、馬鹿?」
「なっ、なんだとぅっ!?」
 抗議しかけて、そんな立場ではないことに気がつき口を閉ざす。
「何?自分の愚かしさに、今気がついたの?」
 少年らしからぬ、ニヤリとした底意地の悪い笑みを向けて私を見る。助けて頂いている今の状況では、何も反論する言葉がない。精々「ええ、そうですよ!」とぶっきらぼうに言い放つぐらいしかできなかった。
 何だか先程と立場が逆転してないかと、ふと思った時だった。
「うわっ?!」
と、少年の悲鳴が上がり、体がふわりと傾いたのはほぼ同時だった。
 なんの前触れもなく、私の埋まっていた片足がスポーンと勢いよく抜けたのだった。私と少年はなす術も無く、踏み慣らされてベチャベチャになった背後の公道の方へと倒れ込んでいた。
「……ったたた。あー、いきなり抜けるなんて反則だよ。少年、大丈夫かい?」
 隣で同じように腰を擦っている少年に声をかけると「まぁね」と短く返事があった。その後、小さく「驚いたけど」という言葉が付けたされたのを、私は聞き逃さなかった。その声が、明らかにぶっきらぼで不機嫌なのはやっぱり私のせいだろう。
 ハァッとため息をついて、そのままその場に座り込んだ。そんな私の耳に、クスクスと忍び笑いが聞こえてきた。なんだと思って隣を見れば、同じように座り込んだ少年が、いつの間にかさも可笑しそうに笑みを浮かべている。その視線が私の足が埋まっていた場所を見つめていて、何となくその笑みの訳を察した。
「なに、笑ってるのさ」
 少し不機嫌を装って聞けば、少年は「別に」と尚も笑ったままその場に立ち上がった。その背中が全てドロドロの土と雪で真っ黒に汚れている。今更ながら、自分のした意地悪の結果にチクリと胸の奥が痛んだ。
「その…ごめん。変に意地を張ってしまって。君の洋服を汚してしまった」
 私がそう言うと、少年は一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、今度は少年らしい太陽のような笑顔を浮かべた。
「いいよ、気にしてないから。僕も、変な意地を張ってごめんなさい」

――すみませんでした。

「昔から僕の場所だったから、なんとなく他の人が踏み込んで来るのがどうしても許せなくて……」

――もう、僕は捕えられて離れられないから。

「え?」
 訳の分からない少年の言葉に、思わず疑問の声を上げてそちらを見た。
 そこには、ただベチャベチャの土に汚れた雪まみれのアスファルトがあるだけだった。
「……えーっと?」
 私はここで、何をしていたんだったっけ?
 周りを見渡せば、そこは一面真っ白な雪原が取り囲む寂しい道の端っこ。良い年したおっさんが一人で座り込んでいる姿は、中々にかっこ悪いものである。
「……行くか」
 ポンと膝を打って立ち上がった私の目に、首から上だけをひょっこりと雪の上に出したお地蔵さんが止まる。
「ああ……」
 知らず口から洩れた納得の声が異様に当りに大きく響いて、思わずギュッと口を閉ざした。人知れぬ気まずさにゆっくりと目を閉じて、再び開いた時には私は本来の目的をであるコンビニへと向かって歩き出していた。
 無意識に揺れる腕の手の平に残る握られた感触だけが、あれは夢でも幻でもなかったことを教えてくれる。

 それは、雪の降り積もった冬のある日の出来事だった。

 END

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