とある企業のトイレ掃除中

文字数 4,247文字

  ガシガシガシ、キュッ、ジャーッ!

「よし。これで今日の分はおしまいっと」
 ふぅと額の汗を拭う仕草をしかけ、それが今までトイレ掃除をしていたゴム手袋だと思い出して止めた。
 とある企業の持ちビル。そこのトイレ掃除が今のあたしの仕事だ。ここまで言えばすでにバレバレかも知れないが、あたしはしがないトイレ掃除のおばちゃんである。会社で働く社員の皆様に気持ちよくトイレを使って頂くべく、毎日丹精込めて便器を磨いている。
 今日も今日とて、最後の便器を今しがたピカピカに磨き終わったところだ。
「壁よし。床よし。トイレットペーパーも量は十分」
 掃除忘れがないか一通り個室内を見渡す。
 最後に便器をチェックしようと視線を向けた時、『おい』とどこからか男の声がした。
「え……」
 驚いて身を固くしていると、再び『おい』と声が聞こえてきた。
 慌ててドアを開け、トイレ内を確認してみるがそこには誰の姿もない。というか、ここは女子トイレ。そもそも男性がいるわけがないのだ。
「こ、これは俗に言う“幽霊”というやつかい?!」
『誰が幽霊だ!俺はれっきとした生きた人間だ!失礼な!!』
 思わず叫んだ言葉に、便器の中から怒声が帰ってきて二度驚いた。
『……すまない。怒鳴ったりして悪かった。とにかく、怪しいものではないのでできればこの顔にかかっている白い何かをどけてはくれないだろうか?ご婦人』
 態度はあくまで紳士的だが、聞こえてくる先は洋式トイレの蓋の中。一瞬躊躇したものの、思い切って蓋に手をかける。ふーっと一息ついてから、一気に蓋を開けた。そこにあったのは、精悍な男性の顔。それが、普段尻をはめる場所にスッポリと綺麗にはまっている。しばらく見つめ合った後、あたしはそっと蓋を閉じた。
『おい!なぜ閉じる!?』
 焦ったような男の声に、再び蓋を開いた。男の顔は、やっぱりそこにあった。
「閉めれば消える可能性にかけてみたけど、ダメみたいね……」
「消えるわけないだろう!俺は幻でもなんでもない」
 クリアになった耳障りの良いイケメンボイスが、ため息まじりに言う。
「いやー、でもお兄さん。だってそんなところに顔があったら、誰だって見間違いかな?って思うじゃないの」
「そんなところとはどんなところだか俺にはわからないが……。ご婦人の恰好や見えている景色からして、どうやらそちらは俺の世界とは別の世界のように見えるな」
 男の落ち着いた様子とは逆に、その言葉にあたしのテンションがちょっと上がった。
「ほう!それは世に言う“異世界逆トリップ”というやつかい?!」
 良い年したおばちゃんのあたしだが、今流行りの異世界転生やらなり代わりやらの話が大好きなのだ。小説や漫画,アニメの中でしか起きないようなことが、目の前で起こっているとなればこれは興奮せざるおえない。……まあ、場所と状況はあれだけれども……。
「ご婦人の世のことは知らないが、異世界なのは確かだろう」
「そうかい、そうかい!で?あんたの世界ってのは、どんなところなんだい?」
 食い気味に尋ねると、男は考え込むような表情をしてから語り出した。
「そうだな。ここの様子に比べると、文化や文明レベルは劣るかもしれん。石レンガの建物が主流で、ここの壁のような硬そうな素材のものはないだろう。自然は豊かだな。実りも多く、民が飢えることもない。だが、争いはあるな。同盟を結んでいる国は多いが対立する国も少なくない。最近の悩みは隣国からの難民の数が年々増えていることだな」
「ほうほう、なるほど。それで、あれかい?剣とか魔法とか存在しちゃう感じかい?」
 試しに聞いてみると、男の顔が小さく頷くように揺れる。
「ああ。その通りだ。あなたの世界にも、そういったものがあるのか?」
 男の問いかけに、あたしは首を横に振った。
「剣はあるけど、魔法はないね。代わりに科学ってものが発達してるかな。まあ、魔法に近いけど……全部同じというわけではないね」
「なるほど、色々と興味深い。このようなところで動けない身でなければ、自分の足で見て回るのだがな…」
 難しい顔をして溜息を吐く男。
「そうそう、なんであんたそもそもそんなところに挟まってるのさ」
 自分のせいだけど、逸れに逸れた話題がやっと最初の疑問点に戻って来た。
「その、そんなところがどんなところかはわからないのだが…ここから動けない理由は俺にもわからないんだ。昨晩自分のベッドに寝て、目が覚めたらこのような状態でね」
「なるほどねぇ。でも、はまっているだけなんだから自分で抜け出せるんじゃないかい?こう、両手を使って踏ん張ればさ」
 そう言って踏ん張る動作を顔の横ですると、男性は残念そうに眉をひそめた。
「できないんだ。両手を突き出しても空を切るばかりで何もないんだよ」
「え、そうするとあれかい?あんた、顔の表面だけこっちに来ちゃったってことかい?」
「そのようだな」
 困ったような表情の男に、あたしはその状況を思い浮かべて「うわぁ…」と思わず小さく呟いていた。
 ベッドに横たわる男の体。そこにあるはずの顔はなく、ただ虚空に両手が伸びてワキワキしている状況はどう見てもホラーだ。
「そこでご婦人に相談なのだが、俺の顔を押してみてはくれないだろうか?」
「え、うーん……」
 懇願され、視線を男と便器の境界線に走らせる。ピッチリと吸い付くように接っするそこには、一ミリの隙間も見当たらない。試しに腰掛ける部分を持ち上げようとしてみたが、ピクリとも動かなかった。
「わかったよ。とりあえず押してみるね」
 持っていた掃除道具を壁や床に降ろすと、「失礼しまーす」と断ってからその広い額をグッと力を込めて押してみる。しかし、男の顔は微動だにしなかった。更に力を込めて押す。男の表情が痛みに歪むが、動く様子はない。一旦手を放すと、気合を入れ直して今度は勢いよく全体重を乗せて押してみた。
「うおりゃぁぁぁぁっ!!!!」
「うごっ、ぐうぅぅぅぅっ!?」
 女子トイレにおばちゃんの掛け声と、イケメンボイスのうめき声が響き渡る。知らない人が聞いていたら、警察を呼ばれること必至な状況だ。しかし渾身のあたしの一押しも、男の顔を外せる力にはならなかった。
「うーん。こりゃ随分と頑固だね」
 ふーっと息をついて腕を組む。何か良い方法はないかと考えを巡らせたあたしの脳内に、石鹸で抜けなくなった指輪を抜くという映像がピンと浮かんだ。
「そうだ!顔と便器の間に、トイレ洗剤を流し込んでみたらどうかね。それで押したら、スポッと抜けるんじゃないかい?」
「トイレはわかるが、洗剤というのはどういうものなんだ?」
 良い思い付きにテンション高めなあたしとは裏腹に、知らないものを顔に流されると言われた男の表情は不安で硬くなる。
「そうだねぇ…石鹸はわかるかい?」
 あたしの言葉に、男が頷く。
「ああ、それは知っている」
「なら話は早いね。洗剤ってのは、石鹸を溶かした水みたいなものだよ」
 そう言ってトイレマ○ック○ンを片手に取り胸を張る。
「石鹸水か。なるほど、あれなら滑りが良くなって抜ける可能性もあるかもしれないな。ただ、目に入らないようにだけは気をつけて頂けると嬉しいのだが……」
 男の視線が便器の淵へ一度ちらりと向けられ、緊張した様子であたしへと帰ってくる。
「大丈夫、大丈夫!これ、泡で出て来るタイプだから」
「ほう。その入れ物は石鹸水を泡立ててくれるものなのか。素晴らしいな」
 関心した様子の男に得意気ににやりと笑ってから、あたしは男と便器の境界線にプシュッと洗剤を撒き始めた。
「あ、口は閉じてね。あと、目も開けないように」
 一旦手を止めて言うと、男は黙って頷き目と口をギュッと閉じた。便座にはまり顔の回りを白い泡に囲まれながら、必死で目を閉じる男という光景は実にシュールだ。悪いと思いつつ口の端をピクピクさせながら、懸命に笑いを耐えた。耐えながら、男の顔を滑らず上手に押し込む物を探す。
 個室を出て、掃除道具入れの戸を開けた。モップにバケツにたわしに雑巾等々。掃除に必要なもので、一押しで顔を均等に押せるものは中々見当たらない。
「うーん」
 唸りながらぐるりと見渡した視線に、ラバーカップ(すっぽん)が止まった。これならば、一押しで全面を均等に押せる。あたしは頷いてそれを手に取った。
 急いで個室に戻り便器の中をのぞき込む。そこには相変わらず、泡に囲まれ素直に目と口を閉じてじっとしている男の顔があった。
「……一旦離れれば消えるということもないのね」
 ポソリと呟き、気を引き締め直してラバーカップを両手で握り直す。
「待たせて悪かったね。あんたの顔を一気に押すのに丁度いい道具があったから、これで押させてもらうよ。もちろん痛いことはないと思うから大丈夫。あ、でも押すために力込めるからぶつかった時ちょっと痛いかったら勘弁ね」
 そう断りを入れると、男が小さく頷き返した。それを確認し、男の顔に真っすぐ落ちるよう照準を定めながら、ゆっくりと両手でラバーカップを浅く振り上げる。フーッと息を吐き出し力を込めると、男の顔めがけて一気にそれを振り下ろした。

  ブヂュッ!!

という音と、

「ぐごっ……!?」

という男の悲鳴が重なり、両手にかかった強い衝撃が一瞬でふわりとなくなる。
 驚いて手を下ろすと同時に閉じていた目を開くと、便器から男の顔が段々遠ざかって行くのが見えた。外れたというスッキリとした達成感と同時に指先についていた洗剤が滑り、ラバーカップから両手がすっぽ抜けていた。
「あっ!」
 慌てて伸ばした片手も虚しく宙を掴み、ラバーカップは男の顔面に吸い付いたまま、白い空間へ共に落ちて行った。
「あー…会社の備品が……」
 がっくりと肩を落としたと同時に、伸ばした片手がパシャンと水に落ちた。再び視線を向けた便器の中は、いつも通りの水を流す場所へと戻っていた。夢か幻覚かと思いたかったが、尻をはめる場所についた泡と何処を探しても見つからないラバーカップがそうではないことをあたしに教えてくれていた。
「あの男、大丈夫だったかねぇ。……まあ、あたしが心配したところでしょうがないか」
 肩を竦めて溜息一つ。床に置いておいた掃除道具を片づけると、あたしはトイレを後にした。

 後にそのトイレが、“残業していると男とも女ともとれるうめき声が聞こえてくる恐怖のトイレ”として、社内でちょっと有名になったのをあたしは仕事仲間から聞いて知ることになるのだった。


 END
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