蔵の中の鳥

文字数 3,063文字

 僕の家の庭には、ずっと昔からそこに建っている古い古い蔵が一つある。開けるのはいつだって特別な日だけで、重そうな扉はいつもぴったりと閉められていた。
 だけどあれは…いつ頃からだったろうか。その蔵から僕の姉さんの所へ、毎夜遊びに来る子が現れたのだ。
 僕の姉さんは病気がちで、体調の良い時以外は毎日蔵の見える広い座敷に布団を敷いて横になっていた。見間違いでなければ、その姉さんが一人の男の子に手を引かれ、軽い足取りで蔵へと入って行くのである。

――それから数日して、姉さんが視力を失った。
 母さんと父さんが奥の座敷で何か難しい話をしている。その間に、僕は二度と光の戻らない目を閉じて布団に横になる姉さんに、僕が毎夜見るあの光景について尋ねてみた。でも姉さんは静かに微笑んで、
「寝ぼけて夢でも見たんじゃないかしら?私は夜はちゃんとここで眠っているわよ?」
と、そう言うだけだった。
 でも、その夜も姉さんはあの男の子に手を引かれ、蔵へと入って行ったのだ。
――これは……本当に夢なんだろうか?

 それからまた何日かして、姉さんの手が動かなくなった。
 姉さんの蔵通いも続いている。
 姉さんがどんどん悪くなって行くことと、姉さんが毎晩蔵に誰かと入って行くことは、切っても切り離せない関係があるんじゃないかと僕は思い始めていた。
 姉さんを連れて行くあの子は誰だろう?僕には男の子のように見える。姉さんの腰ほどしかない背におかっぱの黒い頭。半袖のシャツに半ズボンをはいていて、そこから出ている手足も僕みたいに小さかった。大人なら、お父さんのように太くて大きな手足のはずだから。
 奥座敷へと続いている廊下の壁に、ずらりと並んだ家の鍵。その中から、踏み台を使って蔵の鍵を選んで取る。
――分からないのならば、調べればいい―ー
 まるで冒険物語を読む前のような気分だ。流行る気持ちを抑えつつ、蔵の前に立った。それだけでも、僕の胸は期待と不安でドキドキと高鳴っていた。
 少し錆びついた鍵を同じく錆びついた錠前に差し込んで、ゆっくりと横に捻る。カチリという音がして、鍵はすんなりと開いた。跳びあがるほど喜びたい気持ちをグッと堪えて、扉を力いっぱい横へと押した。重い抵抗と共に開いたその先には、格子状の扉がもう一つあった。それを同じく横へスライドさせて開け、僕はやっと蔵の中へと足を踏み入れることができた。
 中は薄暗く、たった一つの小さな窓から零れ落ちる小さな光のすじが、僕にとっても唯一の光源だった。今更ながら、懐中電灯でも持ってくれば良かったと後悔する。
「……誰か…いますか?」
 心細くなって薄暗い部屋の中へとそっと声をかけてみる。しかし、返事をする者は誰もいなかった。とりあえず、目が慣れるまでじっと待つ。周囲が大体見えるようになってきてから、僕は蔵の中をあっちこっち探り出した。
 蔵の中には見たこともない物たちがたくさん置かれていた。いつのものか分からない掛軸や陶器のお皿から、所々虫に食われて穴の開いた布に包まれた細長いもので。色々なものがそこにあった。
 僕が本来の目的を忘れてそれらのものに見入っていた時、ふと背後に視線を感じた。小さな生き物が僕を見ているような気配。しばらく黙っていなくなるのを待ってみたが、その気配は一向に移動する様子がない。しかたなく、覚悟を決めて恐る恐る振り返った。そこにいたのは、一匹の朱い鳥だった。陶器の箱が並ぶ棚の上にちょこんと止まって、小さな黒い瞳でじっと僕を見つめていた。視線の主が小鳥と知り、無意識に止めていた息を吐き出した。それと同時に体から力が抜ける。
「……びっくりした。小鳥さんか……」

 チチッ。

 僕の声に答えるように小鳥が一声鳴くと、バサリと棚から飛び立つ。その姿を何気なく目で追っていた僕は、その先で見えたものに視線が釘付けになってしまった。
「…あ……」
 棚の向こう、蔵の二階へと続く階段の真ん中。そこに降り立った小鳥の隣に、見つけてしまった。二階から逆さまにこちらを覗き込み、じっと僕を見つめる小さな顔を。それは、二階から覗き込んだにしては余りにも不自然にそこへ浮いていて、子供と呼ぶには余りにも年を取り過ぎている皺くちゃの小さな顔。
「…うぁ……」
 半ば飛び出した死んだ魚のような濁った瞳に見つめられ、僕はその場から一歩も動けなかった。早鐘のようになる心臓の音だけが鼓膜に響き、カラカラに乾いた口からはヒュッと喉の鳴る音しか出ない。

――誰か!!

 そう心の中で叫んだ時、不意に皺くちゃの顔が更に歪み、にたりと笑みが気味の悪い顔に浮かんだ。ゆっくりと、腫れぼったい唇が動き息の抜けるような掠れた高い声がそこから漏れた。
『ねぇ。遊ぼうよ、お兄ちゃん』
「――っ?!」
 のったりとした耳障りの悪い、子供の声が鼓膜を撫でた。瞬間、何故か急に背筋を冷たいものが走り、僕は絶叫してそのまま意識を失った。


 気がつくと僕は自分の部屋の蒲団に寝かされていた。心配そうに覗き込んでいた母さんに、僕は夢中でしがみ付き大声で泣いた。
 それから僕は、蔵に入ることも近づくこともしていない。
 姉さんの蔵通いは、相変わらず続いている。

 それから半年が経って、姉さんに奇妙な事が起きた。
 朝、僕がいつものように姉さんの気分を窺いに行くと、姉さんはそこにいなかった。空になった布団の中でただ足下だけが膨らんでいて、不思議に思い掛け布団をまくってみた。するとそこには、姉さんの白くて細い綺麗な両足だけが赤く色づく布団の上にまるまると残されていたのだ。
 姉さんは足だけを残して、何処かへ行ってしまった。
 家族全員で家中を探してみたけど、姉さんはどこにもいなかった。病弱な姉さんが外へ出て、姿をくらますほど遠くへ一人でいける筈がない。まして、足がないのに。
 でも僕には分かっていた。姉さんはきっとあの蔵の中にいる。あいつに連れて行かれたんだ。あの気味の悪い小さな老人に。二度と逃げられない様、両足を切られて。


――姉さんがいなくなって三年が経った頃。庭の蔵が取り壊されることになった。
 その取り壊し作業中、瓦礫の中から恐ろしいものが見つかった。それはバラバラになった人の骨だった。その人骨はいくら探しても両足だけが見つからず、家族の誰もがそれは姉さんだと確信した。
 姉さんはやっぱり、蔵の中にいたんだ。
 だけど、あの老人の痕跡を語るものは何も出なかった。そしてあの小鳥の姿も。
 あの老人は一体何者だったのだろうか。何故姉さんを連れていったのだろう?僕ではダメだったのだろうか……。

 何も分からないまま、今年の梅雨の頃に母さんが蔵の跡に向日葵の種を撒いた。夏になったらきっとたくさんの太陽みたいな黄色い花を咲かせるだろう。秋には落葉がその土の上に積もり、冬は雪が庭の全てを覆い隠すだろう。まるで僕の気持ちと呼応するかのように、自然はそうして僕の目から蔵の記憶を薄れさせて行く。姉さんを殺した、あの蔵の記憶を――

 チチチッ。

「!!」
 聞こえた鳴き声に空を仰いだ。一匹の小鳥がじっと木の梢に止まり、じっとこちらを見つめていた。その姿は逆光で黒く染まり、色までは遠過ぎて確認できない。それでも目を凝らして見つめていた僕の前で、小鳥は首を背けるとパッと青空へ飛び立ってしまった。
「あっ」
 一瞬、陽の光に朱い羽がい見えたような気がした。けれど、もう確かめる術が何もない。小鳥はもはや、青空の彼方へ飛び立ってしまったのだから。そう、自由に羽ばたける大空の下へと。

 終

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