第一項 悲しい女性(ヒト)

文字数 3,360文字

 蓮が降りてきたとき、頭上から水柱が圧しかかってきました。彼は咄嗟にセナさんを放り、そのままひとり、激流に呑まれてしまいました。
 「蓮!」
私たちは、熊川さんにセナさんを預けました。そして、水が引くのを待って、蓮を探そうとしていたのです。でも、水が引くことはありませんでした。だって流水が、彼らを取り巻く結界となったのだから。まるで童話の世界に出てきそうな、水で出来た神殿です。傍目には、石英で出来た、クリスタルの建物です。そんな建物の中で、蓮と翼を携えた少年は斬撃を交えているのです。
 「水の烙印(プラヴァシー)よね?」
背後から声がして振り返ると、セシルさんが立っていました。
「蓮ったら、最初からわかってたくせにねぇ」
「蓮……」
 襲いかかるあの少年は、蓮にとって大切なヒト……そんなヒトと、彼は本気で戦えるのでしょうか?
「どうするのかしらね?あれだけの異能、今の蓮に押さえられるかしら?殺さずに勝つことなんて、無理ないんじゃないかしら?」
 確かにセシルさんの言うとおりです。さっきの戦いで消耗しているのに、天使サリエルと戦わなければならないのです。それも、可能な限り傷つけずに救うなんて……
 「こんな状況で、この娘のそばに私が来たわ。さあ、どうするの?蓮!」

 『ったく……神様はどこまでいっても、俺に意地悪だな……』
そんな心の声が、聞こえたような気がします。透明な壁に遮られた先の、蓮たちの声や音は、私たちには聞こえません。恐らくあれは、リジルくんがカリプソで張った、結界なのでしょう。
 さて、蓮は戦いながら悩んでいました。
『リジルかサキか、選べってことか?それとも、2人同時に奪って、俺の心を壊そうってのか?』
心の声と整合するように、蓮は表情を歪めて戦っていました。濡れた髪の向こう側、彼の瞳に苦悶が見え隠れします。彼は今、戦いに集中できていないのです。
 「そうよ。あんたの願いは、どこにも届かないって決まってるの」
私の隣で、セシルさんがクスクスと笑います。
「叫んだって、無様に響いて消えるだけよ?」
蓮に向けられる、尽きることのない彼女の悪意。私はそれが許せなくて
「いい加減にしてください!」
突っかかってしまいました。
「あら、足枷の泥棒猫が何の用?」
 もちろん彼女は、真面目に取り合ってくれません。むしろ私を、獲物でも見るかのように見下すのです。私は我慢ができなくなって
「あなただって、蓮のことが好きなんでしょ!?」
彼女の悪意の先にある、本心を口にしてしまいます。涙を浮かべながら、叫んでしまうのです。
「なのになんで、彼を苦しめるようなことばかりするんですか!?」
 セシルさんが現れてからずっと、蓮は苦しんでいました。そして私も、蓮との絆に疑問を感じて、辛くて仕方が無かったのです。だって私が知らないことを、この女性(ヒト)は知っているのです……それが許せなくて、つい感情的になってしまうのです。
 そんな私を蔑むように見つめながら
「彼、女の趣味が変わったのかしら?」
セシルさんは悲しそうに呟きました。
「以前は長身で細身の、モデル体系を好んでたんだけど」
 これは、小柄で童顔な、幼く見える私に向けられた嫌味なのでしょう。
「それは、あなたのような美人のことなんでしょうね?」
それがわかるから、私も皮肉で返してしまいます。そんなことを言っても、セシルさんは何とも思わないでしょうに……でも予想に反して、セシルさんが傷ついた素振りを見せました。
 「そうね……そうなのよ……」
そう言って恨めしげに、美しいブロンドのロングヘアーを撫でました。
「彼が愛した女たちは、みんな……そう……あのクレナも……」
「女たち?」
「ああ……そうね。あなた知らないんですもんね」
この態度に、さっきまでの私なら、苛立っていたでしょう。でも
「いいわ。教えてあげる。あなたが知りたいのなら……知る覚悟があるのなら」
無理に笑ってみせるセシルさんが、なんだか痛々しくって……
「教えてください」
素直に聞くことができました。
 「じゃあ、教えてあげるわ」
セシルさんは私に背を向けて、蓮を見つめながら語り始めるのです。
「あるところに、一人の少年がいました」

 「少年は、少女の家に居候になっていました」
以前聞いた話の続きです。
「少女の父親は、少年を憎んでいました。だって、最愛の娘が少年を好きになってしまったから……」
遂に耳にする、セシルさんの本音。
 やっぱり……このヒトは彼を……
 「少女の父親は残酷なヒトでした。“娘の命の恩人だ”、”自分が恩人の保護者になる”と言いながら、実際には少年を屋敷に軟禁してしまうのです。労働も教育も課せられない環境で、少年は退屈な毎日を送ります。褒め殺しとご馳走が用意され続ける、不自然な生活を強要されます。自分に向けられた悪意、自分を堕落させようとするその悪意を、敏感に感じ取った少年は、流されまいと、強く自制するのです」
 そしてセシルさんの声のトーンが変わります。煮えたぎる怒りが憎悪に転化した、暗くて低いものです。
 「堕落しない少年を見て、少女の父親は不愉快になりました。”たかが実験体のくせに”、”たまたまプラヴァシーに適応しただけのくせに”と。娘の心を盗んだ少年が、憎くて憎くて仕方がなくて……憎くて憎くて赦せなくって……どうしても、彼が墜ちていくところを見たかったのです」
セシルさんの表情がさらに歪んで
「だから、自分の愛人を差し向けたのです」
恐ろしいほどの憎悪を発するのです。
 それは、父親に向けた感情(もの)なのか、それとも蓮に向けられたものなのか、私にはわかりませんでした。ただ、怒りが生んだ激情が、行き場なくセシルさんの中で凝縮していることだけはわかります。
 「少女の父親は、使用人であり愛人であったメアリに、少年を誘惑させました。少年は誘惑に耐え、彼女をかわしていました……かわしていたのに……」
そして、私も聞きたくない
「最後には……最後には……」
蓮の過去を音にしたのです。
「身も心も……重ねてしまいました」
 そのとき、セシルさんは顔を背けました。そしてそのまま俯いて、黙ってしまいました。彼女を操る悪意より、彼女自身の悲しみが凌駕したように見えました。あまりにも苦しくて、悔しくて、悲しい思い出に、セシルさんは涙を堪えられないのです。
 セシルさんは語りませんでしたが、蓮とメアリさんが愛し合うようになったとき、セシルさんのお父さんが、卑劣なことをしたのです。セシルさんに見せたのです。蓮とメアリさんが重なり合っている映像を……好きになった少年が、他の女性を抱いている様子を……
 「はぁ~あ、や~めた」
「え?」
「今日はここまでにしましょ。話していて、気分悪いわ」
「……」
「続きは今度話してあげる。あの女……可哀想なクレナのこともね」
「クレナさん」
 聞いたことがある……確か、蓮が殺したっていう、恋人……
「彼、今もあのヘッドホンを持ち歩いているのね」
「え?」
「首にかけているじゃない。安物のヘッドホン」
 彼女が指さしたのは、セトさんの声が聞こえる、あのヘッドホンでした。涙を浮かべたまま微笑むセシルさん。彼女は、あのヘッドホンがなにかを知っているようです。じゃあ、セトさんのことも?
「もう、動かないのにね……」
 セトさんのことを知らないのでしょうか?でも、そんなことが気にならないくらい、涙を浮かべながら微笑む彼女は、とっても美しかったです。私の胸が、切なくなってしまうほどに。
 このヒトは蓮と一緒にいて、いっぱい知ってる……いっぱい、傷ついてる……なのに、今も蓮のことが好きで……
 どうして神様は、こんなことをするのでしょう?わざと2人をすれ違わせて、憎み合い、苦しめ合うように仕向けるのでしょうか?
 大切なヒトを傷つけたいなんて、誰も思わないはずですよね?でも、私たちは大切な誰かを、知らず知らずのうちに傷つけてしまうのです……傷つけたくないと思うだけでじゃ、ダメなんです。思うだけじゃ、守るくらいの想いがないと、ヒトはすれ違ってしまうのです……
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登場人物紹介

桜苗沙希(さなえさき)(16)

ちょっと天然な、お菓子系の美少女。

パステルカラーがよく似合う。

感受性が強く、不思議な青年、蓮と惹かれあう少女。

後に、”特異点”と呼ばれる。

蓮野久季(はすのひさき)(21?) 通称:蓮(レン)

その経歴や言動から、とにかく謎の多い青年。

「黒い剣士、銀色の悪魔、ワケあり伊達眼鏡、生きる女難の相」など、いろいろ呼ばれている。

物語の核である、「グラマトン、プラヴァシー、継承者、閉じた輪廻」に密接に関わる、左利きの男。

多重人格者であるが、それらは前世以前のもの。

セト

蓮が利用するアルドナイ(AI)

蓮を「兄サン」と呼び、主に情報収集と相談役として活躍する。

本編で詳しくは語られないが、遂に正体が見えてくる。

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