第9話:B29の爆撃と集団疎開

文字数 1,354文字

 そこで成東が保田に、自分の銀行の口座名と口座番号を知らせた。すると、毎月、定額を振り込む事にするから預かってと言われ、了解したと答えた。続いて成東、保田に日本の政府を信じないのですかと聞くと昭和初期の銀行取り付け騒ぎの時は、時の大蔵大臣の不用意な失言で、銀行の取り付け騒ぎになった。そんな無能な政治家が舵取りする政府を信用できるかと言った。

 ましてや軍部は、信用できない、何をするかわからないと告げた。保田さんが、成東君、東京で仕事をしているが、体に気をつけろ危ないと思ったら直ぐに逃げろ絶対に死ぬなよと言い、保田さんが成東を抱きしめた。早く戦争を終えて欲しいと大粒の涙を流した。金はあるから会社を辞めてもかまわないから、ここに帰ってこいと言われ考えておきますと答え、千葉を後にした。

 こうして1944年の暮れからB29爆撃機による本土空襲が開始された。真磁荷の国民生活は、非常に過酷なものだった。1945年3月10日、東京大空襲があり、一夜で東京の40%が焼失し、約10万人が死亡。地方都市も空襲を受けるようになり戦力は日々、衰えた。戦局の悪化とともに学童たちは、空襲をさけるために田舎に疎開することになった。

 最初は、親戚や知人をたよっての疎開だったが、後に集団疎開となった。各地での日本軍の敗戦の事実は、国民には知らされず、政府や軍は、必ず勝つと宣伝した。1943年12月、学徒出陣が始まる。1944年に入ると中学生以上は勉強の代わりに工場の仕事や土木作業をすることが多くなった。さらに25歳以下の未婚女性を女子挺身隊に編成して、軍需工場へ動員した。

 都市の食料不足は深刻で人々は飢えに悩まされ庭や公園、学校の運動場も畑に変わった。1941年から米は配給制となったが、1942年初め、みそ・しょうゆ・衣料などが切符制となった。切符制度は砂糖・マッチ・木炭にまで及び日本中に広がった。切符制では、背広50点、靴下2点などと定め1年間に1人が購入できる衣料の限度を都市部100点、郡部80点とした。

 1944年フィリピンのレイテ島沖海戦から日本は、特別攻撃隊「特攻隊」を組織。特攻隊とは、片道だけの燃料しか積まず死ぬ事を覚悟して敵の艦船に爆弾を抱えたままで体当たりする部隊。特攻隊への入隊は、すなわち死を意味する。特攻隊の攻撃では4千人近くが戦死。特攻隊攻撃は飛行機によるものだけでなく歩兵が爆薬を抱いて戦車の下に身を投げる攻撃法もあった。
 
 1945年4月、アメリカ軍は沖縄に上陸する。沖縄は、日本で唯一、アメリカ軍との地上戦が行われた場所であり多くの民間人が犠牲になった。女子生徒らの「ひめゆり部隊」は看護婦として従軍し、そのほとんどが戦死あるいは集団自決した。また、男子中等学校生徒も戦闘にかりだされ、鉄血勤皇隊が組織されたが、約900名の死者を出した。

 沖縄では、日本軍がスパイ容疑や戦闘の邪魔になるという理由で、沖縄の住民を殺害する事もあった。アメリカ軍は6月に沖縄を占領。沖縄戦では住民45万人のうち、12万人以上が犠牲となった。1945年8月6日に広島と8月9日長崎 に原爆が落とされる。広島では約20万人、長崎では7万人以上が亡くなった。現在でも多くの人が放射線障害に苦しんでいる。 
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