第2話:昭和恐慌1

文字数 1,441文字

 1920年代は、「慢性不況」と称される程の長期不況が支配。大戦期の花形産業だった鉱山、造船、商事がいずれも停滞し銅の値上がりで巨利を得た日立鉱山の久原房之助や一時は三井物産を上回る取引をした神戸の貿易商鈴木商店が破綻。重化学工業も欧米製品が再び流入して苦境に立たさた。昭和恐慌の発端は、第一次世界大戦による日本の大戦景気の崩壊にある。

 第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本だったが、戦後ヨーロッパの製品がアジア市場に戻ると1920年には戦後恐慌が発生し、それが終息に向かおうとしていた矢先、1922年の銀行恐慌、1923年には関東大震災が次々と起こり再び恐慌に陥った。この時、被災地の企業の振り出した手形を日本銀行が再割引して震災手形とした事はかえって事態の悪化をまねいた。

 第一次世界大戦最中の1917年9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止を行い、事実上、金本位制から離脱した。アメリカは、大戦直後の1919年には早くも金輸出を解禁し、金本位制に復帰。しかし日本は、大戦後の1919年末には内地・外地あわせて正貨準備が20億4500万円にのぼり、国際収支も黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった。

 1920年代には世界の主要国は、次々に金本位制へと復帰し金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されて、世界経済は大衆消費社会をむかえた。そして「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受した。日本政府は、この様な世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺った。

 しかし、1920年代の日本経済は慢性的な不況が続いて危機的な状態にあった。また、立憲政友会が反対に回った事から金解禁に踏み切ることができなかった。1924年4月、成東虎之助は、三井物産で総務部で、海外との電信のやりとりをしていたが、その部署の3つ年下の亀田優美さんと半年前から仲良くなり、翌年1925年2月18日に東京で結婚式をあげた。

 亀田優美さんのお父さんも埼玉出身で、優美さんも苦学の末、奨学金を受けながら女学校を優秀な成績で卒業し三井物産に入社。1927年には片岡直温蔵相の失言で、取り付け騒ぎから発生した昭和金融恐慌が起こり為替相場は下落する状況が続いた。1928年6月にはフランスも新平価「5分の1切下げ」による金輸出解禁を行ったので主要国では日本だけが残された。

 このころ日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく財界全体の要求となった。1930年4月、水戸・徳川家の末裔の徳川兵衛から銚子の漁師の頭領、保田義朗の所に電話で、お米を売ってくれないかと言い、支払いは小判でしたいと話した。水戸から徳川兵衛が今度の日曜日に来ることになった。

 保田は東京高等商業学校を卒業した成東虎之助に一緒に米の売買交渉に加わってくれと依頼すると承諾した。日曜の昼に徳川兵衛が、お付きの者3人とやってきた。そして最初、小判が入った桐の箱を見せて、米、野菜、魚と交換してくれと言いだした。それを聞いて成東が徳川が金策に困っている事を感じ強気に出た。

 どれ位の米が欲しいと聞くと最低1俵・60kgと言った。それを聞いて、米1俵で小判2枚と言うと小判1枚だろうと言い返したので別に嫌なら売らないと伝えた。すると欲深い男だと、言い、どれだけの米を売ってくれるのかと聞いた。
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