第1話:虎之助が保田家の助けで旧制高校へ

文字数 1,421文字

 成東虎之助は、1900年、千葉県の銚子の郊外で生まれた。成東家は貧農の家だったが、米、野菜、果物と魚を取って暮らしていた。虎之助は、生まれつき賢く、尋常小学校を優秀な成績で卒業し、村の有力者の保田義朗に見込まれ、中学、高校の教育費を貸してもらう事になった。保田義朗は、日本がロシアに勝ったので好景気が来ると考えた。

 そして1910年に奥さんの幸子さんとの間に3人の子供がいた。またロシア革命やヨーロッパが、ごたついていたのに注目していた。その後、1914年7月、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫婦が、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプに銃で暗殺された。これを知って、大きな戦争が起きると考えた。

 戦争が起きると船が足らなくなるから船会社の株を買おうと考えた。もちろん、この話を成東虎之助の伝え相談すると戦争の可能性があると思うと言い、船会社の株を買うのは賢明だと答えた。成東家は、銚子の大きな漁船を8隻持っていて1912年には、大金を持っていた。その金で1914年から日本郵船、大阪商船、内田汽船、山下汽船の株を下値で買い集めていった。

 すると株価も上昇したが、配当率が60割、600%と言う現代では考えられない高配当だった。つまり10万円で買った株の年間配当が60万円だったのだ。その後、成東虎之助が恩師、保田義朗に株は、下がり始めたら、直ぐに売るように指示。成東虎之助は、千葉県立銚子中学に入学し、猛勉強の末に東京高等商業学校「現在の一橋大学」を受験して合格した。

 その後、1920年に東京高等商業学校を卒業した。成東が、1920年に入ると日本株が下げ始めたので、保田に持株全部を直ぐ売るように言った。慌てて、持株全部を売ると、投資した100万円が6年間で8倍に増えて800万円となった。そこで保田が成東に教育資金は全て、返済無用と言い、その代わり、今後も投資の指南をしてくれと言われ成東は、了解した。

 その後、東京高等商業学校を卒業した成東は、三井物産に就職して東京の社員寮に住むようになった。1920年になると以前の好景気から一転して3月には大恐慌になった。原因は、ヨーロッパが第一次大戦で、輸出できなくなり代わりに日本の輸出が好調になった。それがヨーロッパが戦争を終え、再び、世界の輸出市場に参入してきた。

 そのため日本からの輸出は、一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。1920年4月から7月にかけては、株価暴落を受けて169の銀行で取付騒ぎとなった。1919年以降は輸入超過となり大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場も1920年には半値以下に暴落して打撃を受けた。

 これにより、21の銀行が休業、紡績・製糸業は操業短縮を余儀なくされた。休業した銀行の多くは地方の小銀行であったが、横浜の生糸商3代目茂木惣兵衛の経営する茂木商店が倒産したため、茂木と取引のあった当時の有力銀行第七十四銀行も連鎖倒産。しかし、三井財閥、三菱財閥、住友財閥、保田財閥など財閥系企業や紡績会社大手は手堅い経営で安定した収益をあげた。

 むしろ、その地位を向上させ、結果的に独占資本の強大化をもたらした。日本のテロリスト・朝日平吾は、この恐慌で株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めて2000万円を儲けたという噂話に、憤慨し、安田善次郎の暗殺を企てた程だった。
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