第10話:原爆投下と満蒙開拓団の悲劇と敗戦

文字数 1,374文字

 広島市の産業奨励館で、原型をとどめた。現在は原爆ドームとして、原爆の被害を今に伝える建物として世界遺産に指定されている。終戦直前、満州には約150万人もの日本人がいた。長崎に原爆が落とされた日、ソ連が日本を敵とみなして参戦、満州になだれこんできた。満州にいた日本軍は居留民を見捨てて主力を撤退させた。

 自分たちを守ってくれるはずの軍隊がいなくなった居留民たちを待ち受けていたものは、ソ連軍による略奪・暴行・虐殺と飢えだった。こうして満州国は崩壊し多くの日本人が慌てて日本に帰った。その過程で多くの中国残留孤児が生まれた。またソ連軍に捕らえられた者はシベリアの極寒の地に送られ森林を切り倒し鉄道を建設するなどの強制労働をしいられた。

その結果、57万人のうち6万人が死亡。その後、1945年7月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳は、ポツダム会談を開く。この会談で、アメリカ・イギリス・中国の連名で「後にソ連も参加 」 ポツダム宣言を発表。日本の降伏を呼びかけたが、日本はこれを黙殺して戦いを続けた。1945年2月に開かれたヤルタ会談でソ連の対日参戦が決まっていた。

 8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して参戦し満州・朝鮮北部・千島に侵入。ついに日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏。8月15日、天皇のラジオ放送で終戦を発表する。こうして3年8ヵ月にわたる太平洋戦争は日本の敗北で終わった。 日本の植民地だった朝鮮半島の人々は、日本の敗戦によって 「 これで独立できる 」 と喜んだ。

 しかし、敗戦国・日本の領土だったため北半分がソ連、南半分がアメリカによって占領される事になった。また、敗戦時、海外に軍人・民間人あわせて6百万人を超える日本人が残された。海外から帰国する軍人や民間人を乗せた引き揚げ船はどれも超満員だった。降伏した日本は、連合国軍によって占領されたが、占領軍は、実質的にアメリカ軍のみだった。
      
 東京裁判、極東国際軍事裁判とは、 戦後、日本のA級戦犯28名の戦争責任を追及した国際軍事裁判の事。戦争犯罪人にも3種類ある。A級戦犯とは、平和に対する罪「侵略戦争の計画・開始・実行に関わる」を問われている者。当時の政治家や軍部の責任者らをさす。国の要職にある人たちが指揮を誤り結果的に国民に多大な被害を及ぼした判断ミスの責任を問うというのだ。

 B級戦犯とは、捕虜を虐待した罪。C級戦犯とは、一般住民に対する殺害や虐待など人道的ではない行動をしたもの。国内外49の法定ではBC級戦犯裁判が行われた。5700人が捕虜虐待や一般住民殺害などの罪に問われ920人が処刑された。しかし、その内容には首をかしげたくなるような内容も多い。

 元捕虜の証言で手がかりに犯人捜しが行われたが身に覚えのない理由で逮捕され処刑された者も少なからずいた。証拠調べは、ずさんで、法廷では本人に弁明の機会すら与えられないケースもあった。上官の命令に従って捕虜を処刑した兵士にも死刑判決が言い渡されることもあった。

 一面において報復的な裁判であったといわざるを得ない。特に、日本降伏後にインドネシアに再侵略したオランダの軍事裁判が乱暴だったといわれる。A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判は、1946年5月から、東京で、連合国11ヵ国の裁判官により開廷した。
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