第15話:M資金と保田さんのいいつけ

文字数 1,590文字

 上記でみる様に石橋湛山は、清廉で気骨があり見識の高い人物だ。その湛山が、大蔵大臣という職にある時に、「千数百億円のものがどこへ行っておるのか、わからない」と言っているのである。現在価値にすれば、どれくらいの金額になるのだろうか。その一部だけでも、「M資金」の原資となり得るだろう。もちろん、「M資金」の存在が確認されたことはないのであるが。

1950年2月16日の第7回国会の予算委員会で世耕弘一が追及すると当時の池田勇人蔵相は次のように答えて、説明を拒否してる。日本銀行は大体1億2千万円程度の金を持っているが、戦争中に南方諸国より持って来た物とは断言できない。東京湾の金塊については聞いていない。なお、大蔵省の伊原理財局長は、次の様に答弁し、それが以後の政府の公式見解となった。

「東京湾から引揚げられた銀塊について」世上、多くの噂はあっても真相は、終戦後、陸軍から臨時貴金属数量等報告令というのに基づいた。政府に銀塊、約30トンが東京湾にあるとの申告が出た。この銀塊は司令部に接収された後、民間財産管理局で略奪物資であると認定された。「M資金」の「M」は、GHQ経済科学局のマーカット少将の名前に由来するというのが定説。

 マーカットは、第一次世界大戦にも参戦した職業軍人で、マッカーサーの信任があつく、腹心として活躍した。そのマーカットの片腕といわれたキャピー原田という二世がいた。キャピー原田は、東条内閣の商工大臣として統制経済政策を推進した岸信介の才能を認め、日本の経済復興に必要な人物であるとして早期釈放をマッカーサーに具申した。

 その後押しをしたのがダレス国務長官、彼はロックフェラー家と親密。東京湾から引揚げられた金塊類は、極秘にアメリカに運ばれた。アイゼンハワーによりCIAの長官に、ジョン・フォスター・ダレス国務長官の実弟のアレン・ダレスが選任された。CIAは、予算額や使途明細が公表されない組織であったが、国家予算として決済し難い使途があった事は、想像に難くない。

 その様な使途に対して東京湾から引揚げられた金塊類が使われたのではないかという説がある。1949年になると成東虎之助は、49歳になり恩師の保田義朗は69歳となる。そんな、1948年4月19日、春、桜が満開の日曜日、久しぶりに成東が保田と2人きりで、銚子の郊外の保田の家の近くの桜の名所で。お花見を楽しんだ。

 その時、突然、保田が成東に、昔、水戸の徳川の人が米を買いに来たなと言った。そんな事もありましたねと成東が返答。実は、あの時の小判20枚と貴金属、宝石類を日本が戦争に負けた1945年8月、自宅の庭のある所に埋めて隠したと唐突に言った。なぜかと聞くと敗戦となれば、金がなくなり、国民の財産を国が取り上げるかも知れないと思い隠したのだと説明。

 すると金目の物を供出しろと言う事はなかったが、財産税という名目で、資産の多い、国民から容赦なく多額の税金を取り立てた。やはり国民の財産をむしり取ったろと保田が言った。我が家の子孫は、食うに困らない程度の財産と土地を与えられた。しかし、小判と宝石の埋めた場所は、子孫達に教えず、お前だけに教えておくから受け取れと言われ、手にした。

 財産は、俺からのプレゼントとして受け取れと言った。その代わり、俺の葬式の時には、参列して欲しい。また、保田家が、危なくなった時は、力になってくれと言った。それに対し、保田さんは、頭も切れるし、元気だから長生きしますよと笑いながら言うと、俺も長生きしたい。

 しかし、こればかりは、神のみぞ知る領域だからわからないと笑った。この当時、既に、成東は、同じ三井物産に勤める大学を卒業した女性と優美さんと結婚していた。長男、和彦は、東京工業大学を卒業し東芝に入社した。次男、研次は、東京理科大に合格し、その後、松下電器に入社した。
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