第16話:日本の復興期と恩人、保田さんの死

文字数 1,380文字

 もう1人、虎之助の三男の三郎は、東大工学部機械科を卒業し、日立製作所に入社して、茨城県日立の本社に勤めた。やがて1950年となりこの頃から、日本経済も復興すると考えて、大手企業に投資しようと成東虎之助は考えていた。そこで最初に1950年2月にトヨタ株7円で5万株、35万円で購入し、日本電気を同年11月に120円で3千株、36万円で購入。

 その後、1953年4月に日本電気株が上昇し、1800円で全株売り、税引き後利益480万円を手にした。1955年、三郎は、東大卒業後、日立製作所に入社し、茨城県日立市の日立本社の寮に入り働き始めた。1956年にも日本電気株が下げたので390円で1万株を390万円で買い、投資残金が90万円となった。

 その後、1960年4月にトヨタ株を200円で全株売り税引き後利益880万円となった。
投資残高が、970万円になった。同じ年の10月に日本電気株を3200円で全株売り、税引き後利益2860万円となり、投資残金が3830万円となった。そして1960年、成東虎之助が、三井物産、人事部長の役職で定年退職となり退職金は3千万円だった。

 やがて1962年3月、恩師の千葉の保田義朗さんが喀血したと連絡が入り、成東虎之助が銚子の病院に駆けつけた。保田さんの奥様の幸子さんに病状を聞くと胃ガンであり、もう既に進行していて手術できないと言われたと教えてくれた。そこで、いたたまれなくなった成東は、保田家に電話して保田家に伺い、恩師、保田さんを看病したいと連絡した。

 成東の奥さんも週に1回は銚子へ来ると言った。5月6日、保田さんが2度目の喀血をし、医者が夏まで持つかどうかわからない状況だと説明した。そして6月下旬、午後17時に保田さんの病室に成東が行くと、その日は、元気で、保田さんが最初に投資の相談したのは1914年、ヨーロッパでゴタゴタが起きて戦争になると船が足りなくなる。

 だから、直ぐに、日本の船株を買う事にし、1914年から日本郵船、大阪商船、内田汽船、山下汽船の株を安値で買い集めた。これが大当たりし大儲けしたと、うれしそうに語った。その後、戦争景気では、株価上昇も早いが下げるのも早いから、下げ始めたら、問答無用に一気に売ることと、お前が、助言してくれ、損せずに、切りぬけた。

 あれで、俺の資産がふくらんだと笑顔で話してくれた。その後、食糧事情が悪くなった時、水戸・徳川の末裔が小判で米を買いに来た時のやりとりも面白かったと告白した。夜も遅くなったので買えるというと寂しそうな目をして、保田さんが、成東を見送った。その後、家に帰り、床についた。真夜中、成東の背中が急に寒くなり、変だなと思ったがトイレ行った。

 トイレを出るときに、さよならと言う声が聞こえた気がした。急に寒気がしてして鳥肌が立ったので、念のため、保田家に深夜にもかかわらず電話を入れると、いましがた保田義朗が亡くなったと知らされた。その訃報を聞いて走って、保田家の本宅へ入ると、奥さんが、なんで、わかったのと不思議そうに聞くので、虫の知らせかも知れないと答えた。

 ともかく、車に乗って、急いで病院に行き、病室に入ると、保田義朗さんの顔には白い布がかけられていた。少しして、若い医者が病室に入ってきて、午前2時40分、保田義朗さんが亡くなりましたと告げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み