第6話:日中戦争と配給制

文字数 1,357文字

 1937年、慮溝橋事件が起こる。北京郊外の慮溝橋で、日本人兵士が演習中に行方不明になった。日本軍はこれを中国軍の攻撃によるものだとし戦闘を開始。この事件をきっかけに日本と中国の本格的な戦争が始まった。 日本軍は日中戦争の期間、中国のあらゆる都市に壊滅的な打撃を与えた。中国で勢力を持っていた欧米列強諸国は日本の軍事力の前にほとんど無力だった。

 イギリス・フランスは中国以外のヨーロッパなどで問題を抱えていたし、アメリカはアジアのために戦う気はなかった。1937年、日本は、中国の首都・南京を占領する。 ここで、日本軍は、南京大虐殺を起こした。武器を捨てた兵士、老人、女性、子供を無差別に殺害し、その数は10数万人といわれる。 日本国民には、戦争が終わるまでこの事実は知らされなかった。

 その規模や犠牲者の実態が、明らかになったのは、戦後の極東国際軍事裁判でのことである。1938年、南京に、汪兆銘を指導者とする日本の「かいらい政権」ができる。日本軍は中国や満州国の人たちに暴行を加えて食料や財産を徴発・略奪し、労働を強制したりした。南京大虐殺以外にも各地で残虐行為を行い中国人からは恐怖感をもって迎えられた。 

 中国では、国民政府をつくった国民党と共産党の内戦が続いていた。しかし、1937年9月 『同じ中国人どうしが争っている場合ではない』 と考え協力する事になり「 国共合作 」、日本に抵抗するために抗日民族統一戦線を結成した。日本は重要都市とそれらを結ぶ交通路は支配したが、共産党軍の激しいゲリラ戦もあって、広大な中国を占領することはできなかった。  

 国民政府は、首都を南京から奥地の重慶に移し、アメリカ・イギリスの援助を受けて抗戦した。すぐに勝てるという日本の見通しははずれて戦争は長期化していった。この頃、日本は同じファシズムの国、ドイツとイタリアとの同盟締結を考えた。1937年、日独伊の三国防共協定が成立する。ヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、1940年、 三国軍事同盟が成立する。

 日中戦争が始まると、政府は国民を戦争に動員する体制を作った。戦争への批判を抑えるため、新聞・放送などのマスメディアを統制し、出版物への検閲も強化した。 そして、思想や表現の自由を奪っていった。学校でも軍国主義教育が熱心に行われるようになった。1938年、国家総動員法が制定される。

 国家総動員法の内容とは、政府が議会の承認なしで労働力・物資・資金・施設などを統制し使えるようになった。これにより議会政治は形だけのものになった。1939年、重要産業の労働者を確保するため国民徴用令が出される。厚生大臣が徴用命令を発して軍需工業に国民を徴用できるようになった。兵士の召集は赤い紙切れを用いたので赤紙召集とよばれた。

 しかし、国民徴用令による召集は、赤紙召集に対し、白紙召集と呼ばれた。それでも労働力が不足したので植民地だった朝鮮では、1944年には、学徒勤労動員まで始められた。1940年、政党は、自ら解散し、大政翼賛会にまとまる。

 さらに労働組合・農民組合も解散し大日本産業報国会となった。国内の生活物資も不足するようになった。そして、コメ・衣類・砂糖・マッチなどの生活必需品は、配給制もしくは切符制となった。
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