第7話日中戦争から日米開戦へ

文字数 1,303文字

 日本は、1938年「張鼓峰事件」・1939年「ノモンハン事件」にソ連と武力衝突を起こしたが、いずれも敗北し、対ソ戦が容易でないことを感じた。また中国の蒋介石を援助しているアメリカ・イギリスも敵国とみなした。当時の日本は、軍事用の資材が国内・朝鮮・満州・中国の占領地内だけでは足りず、欧米から輸入しなければならない状態にあった。

 しかし国際対立により、その貿易は縮小していった。そこで日本は石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を求め東南アジアへの進出を行った。これを南進政策と呼んだ。1940年、日本は、北部仏印「 北部フランス領インドシナ」への進駐を始める。仏印進駐の目的は、1つ、フランスやオランダが東南アジアに持つ植民地を奪い、資源を確保する。

 2つ、アメリカ・イギリスが蒋介石への援助を行っているルートを断ち切る。仏印とは、現在のベトナム・ラオス・カンボジアがある所で、当時は、フランスの植民地だった。東南アジア進出を行っている日本、ドイツと対立しているため日本との衝突を避けたいソ連は、お互いに戦争を避けるため、条約を結んだ。特に、日本はソ連とノモンハン事件で戦い、敗退していた。

 そこで北方の安全を確実なものにしておきたかった。1941年4月、日ソ中立条約を結ぶ。
1941年6月、日本は、南部仏印「南部フランス領インドシナ」への進駐を始める。こうした日本の行動はアメリカを刺激し日本に対する経済封鎖を強める事になった。アメリカは、1940年にくず鉄・鉄鋼、1941年には石油の対日輸出禁止という措置をとった。

 アメリカ「America」がイギリス「Briten」・中国「Chaina」・オランダ「Dutch」 と協力して日本に経済的圧迫を強めた事をABCD包囲陣と呼んだ。当時の首相・近衛文麿は、アメリカとの関係を良くするための日米交渉を継続しようとした。しかし東条英機・陸軍大臣は日米交渉を打ち切って開戦を主張した。

 両者は対立し、結局、近衛内閣は総辞職。1941年10月、東条英機内閣が成立。11月に出されたアメリカ側の提案「ハル・ノート」は、 「中国・仏印からの日本軍の全面撤退、満州国の否認 」など満州事変以前の状態への復帰を要求するものだったので、日米交渉成立は絶望的となった。 そして1941年12月8日、日本は、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

そして、日本は、アメリカとイギリスに宣戦布告を行い太平洋戦争が始まった。アメリカへの事実上の宣戦布告である交渉打ち切り通告は、在米日本大使館の不手際で、真珠湾奇襲攻撃開始後になってしまった。 「日本の不意打ち」 は、アメリカに衝撃を与え、以後、戦争中 「リメンバー・パール・ハーバー 」のスローガンが叫ばれた。 

 アメリカ国民の日本に対する敵対心は燃え上がり、カリフォルニア州をはじめ西海岸に住む10万人以上の日系アメリカ人が強制収容所に集められた。 同じ枢軸国のドイツ系・イタリア系のアメリカ人に対してはこうした措置はとられなかった。その後、1942年2月、シンガポールのイギリス軍が降伏。3月、日本は、ジャワ島に上陸、オランダ軍が降伏。
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