第25話:アメリカ同時多発テロからイラクとの戦争

文字数 1,189文字

やがて梅雨となりあけると猛暑の夏、9月、涼しくなった9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起きた。この頃、三郎は、奥さんに苦労をかけたのでアメリカ旅行を考えていたが、この計画は、あえなく崩れた。同時多発テロ事件とは、2001年9月11日にアメリカ合衆国で同時多発的に実行された、イスラーム過激派テロ組織アルカーイダによる4つのテロ攻撃の事。

 一連のテロ攻撃による死者は2996人、負傷者は6000人以上であり、インフラ等への物理的損害による被害額は最低でも100億ドルとされている。いろんな噂が飛び交い、未だに、不明な点も多い。この事件を契機として、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになり、アメリカはテロとのグローバル戦争の標語を掲げ始め、世界中が不穏な空気に包まれた。

 アメリカ合衆国と有志連合は、アルカーイダや彼らに支援を行った国への報復を宣言し、アフガニスタン紛争、イラク戦争に繋がった。さらにこれらの戦争により不安定化した中東では、シリア内戦やイスラーム過激派の台頭、アメリカ合衆国とイランの関係が緊迫するなどの事態が発生。また国際的にもイスラム原理主義が活発化し 対テロ戦争の本格的な起点にもなった。

 2001年9月16日、国家哀悼日に、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が「この十字軍、テロとの戦争は時間がかかる」と発言。10月7日、テロの報復としてアメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃しタリバン政権を倒した。さらに2002年1月にイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、世界平和に対する脅威と人権抑圧を続けているとして非難した。

 特にイラクは1991年の湾岸戦争後、フセイン政権は経済制裁を受けながら核開発疑惑に対する国連の査察を拒否してるとして査察受け入れを強く要求。一方のイラクのフセイン大統領は、湾岸戦争後国内の反対勢力を厳しく弾圧し、独裁権力を強めた。大量破壊兵器の開発を口実に 2002年7月、ブッシュ大統領は「イラクは排除されなければならない」と宣言。

 核査察の拒否が、国連決議違反にあたることをその理由とし、パウエル国務長官が盛んに国連の場でイラクを糾弾した。11月8日「国連決議1441号」が採択され「1週間以内の査察を受け入れと30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示」など厳しい条件がイラクに提示された。フセイン大統領は、しぶしぶ査察受け入れを表明、査察団を受け入れた。

 2003年1月の中間報告では「大量破壊兵器」の確証は得られなかった。しかしアメリカは疑惑を払拭できないとし武力行使を決意、イギリスは同調したがフランス、ロシア、中国は、査察継続を主張し国連安保理は意見が一致しなかった。しかし、ブッシュ大統領はイラクにおける人権抑圧とアルカーイダなどテロ組織との関係が強い事などを理由として先制攻撃論を掲げた。
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