第5話:満蒙開拓団と日中戦争

文字数 1,294文字

 移住をすすめた奨め日本国内で恐慌に苦しむ農民の働き口を作るため。満蒙開拓移民が手にした土地は、日本が中国から奪った土地で、満州国の人口4200万人のうち9割が中国人で2%にすぎない日本人が支配。新天地、満州と言う宣伝文句にだまされ27万人の日本人が入植。日本で、長引く不況に苦しむ農村の人々は、地主になれると広大な土地の所有の夢を見た。

 1932年に始まった満州開拓移民は当初、在郷軍人を募って送り込む武装移民の形をとったが、1936年に広田内閣が「20年間で100万戸」を送り込む計画を決定した。その後、農村の次男三男を出身地ごとの集団で送り込む分村移民が主体。村からの強制による移住者も多かった。一般の開拓団に加え14~19歳の若者を訓練所経由で送り込むケースが多かった。

 満州開拓青少年義勇軍なども創設された。太平洋戦争の戦況悪化と共に抗日勢力の中国人に撃たれたりして亡くなる者が出たり成年男子は「根こそぎ動員」で家族と切り離された。終戦直前のソ連参戦で、女性と子供の多くが戦火の中に取り残された。約7万人が、命を落とし、避難した人も伝染病で命を落とす者が多かった。

 世界の国々は、満州事変における日本の行動をどう見ていたのかと言うと、中国では民衆が抗議運動をしアメリカなどの列強も非難した。国際連盟は、イギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を派遣して調査した。調査団は日中両国を回った。リットンが重視し、そして最も苦労した事は、満州の住民から意見を聞くことだった。

 日本や満州国側が、調査団の安全を守るという口実で、住民との接触を阻んでいたからだ。しかし住民らの告発などもあり真実が判明し調査団の報告書を元に国際連盟は日本の行動は「侵略」だと非難。1933年、日本は、国際連盟を脱退。国際連盟は、リットン調査団の報告により満州国を認めず日本軍に撤退を勧告することを42対1で決めた。

 国際連盟の勧告を無視し、国際連盟を脱退した日本は、以後、孤立化の道を歩むことになった。当時、政党は、不景気で国民が苦しむ中、汚職事件で腐敗していた。 財閥も自らの利益ばかりを追求していた。満州事変をきっかけに国内では軍部や右翼の中には内外の危機を脱出するためには、政党・財閥、そして今の現状に満足している元老や重臣たちを否定していた。

 そして軍部中心の強力な内閣を作ろうという動きがあった。1932年5月15日。五・一五事件が起こり、犬養毅首相が暗殺される。これにより8年間続いた政党内閣は終わりを告げた。この事件の後、社会主義者だけでなく自由主義者に対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった。

 1936年2月26日、二・二六事件が起こる。二・二六事件は、陸軍の皇道派と呼ばれるグループが起こしたクーデターだったが、失敗に終わった。しかし、この事件で陸軍の統制派が主導権を握るようになり、以後、軍部の政治的発言力は強まり、日本の軍国主義「ファシズム」は進んだ。満州国の建国を行った日本は、次に中国華北への進出の機会をうかがっていた。
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