第19話:三郎のビジネス成功と3人の孫の現在

文字数 1,355文字

 三郎の食堂の純利益が大きく3年後の1980年には、本店以外に三郎商店として、なめろうコロッケ、冷凍なめろう、その他、保存の効く海産物を売る商店として新たに3軒を増やした。そして、三郎は、近所の中学、高校を卒業したばかりの若者を採用し、店長以外、全て、アルバイトという店を作った。但し、大きな駅の近くとか人通りの多い場所に店舗を展開した。

 やがて1979年があけると、2月にイラン革命、第2次石油危機、同年11月にはテヘランにあるアメリカ大使館の占拠事件、12月に旧ソ連のアフガニスタン侵攻など矢継ぎ早に事件が勃発。さらに、翌年の80年にはイランとイラクでの戦争も本格化していった。そんな1980年に1月、金小判を預けていた銀座の店で、金価格高騰しているので売らないかと言ってきた。

 1980年1月21日の電話で金小判1枚60万円で買い取ると言い、また宝石類も全部で500万円で買い取ると言った。そこで、売りますと答えると、総額1700万円が、成東虎之助の口座に振り込まれた。また、金価格が下がったら、お知らせしますから、その時は、金を買って下さいねと言われ、わかりましたと答えた。

 その後、1980年5月20日には、成田に新東京国際空港が開かれてた。その2年後、空港近くにホテルやマンションができて、にぎわってきた。そこで、1980年10月には、成田空港に1店とに国鉄成田駅と京成成田駅に1店ずつ合計3店舗を開設。なめろうコロッケは評判っだった。空港近くでは、外人のお客が多く魚のフライとなめろうコロッケの注文が多かった。

 それ以外にも空港に送迎で来る人の購入金額も大きい。その後も儲けを新店舗開設に金を使い賃料に充てていた。それを差し引いても三郎食堂の儲けは積み上がっていった。これにより成東虎之助の資産が2億5千万円となった。成東三郎の子供達は、3人の男の子がおり、既に、東京の大学を出て、長男の成東守は、東京都庁の公務員として勤め、3人の子供に恵まれていた。

 次男の繁は、東京外語大学を卒業後、ハワイに渡りホノルルの会社に勤めて日本人相手の商売のマネージャーをしていて、アメリカ人の奥さんと3人の子供に恵まれた。三郎の次男、成東繁、三男、成東徹は、成東虎之助の家に泊まり込みで遊びに来て、泳いだりサーフィンをした。

 そして、金曜の夜に来て、日曜の夜に帰って行った。そのため、虎之助の奥さんも小さい頃から、可愛がっていた。虎之助の長男は和彦は、教育熱心で、子供達を長男を一橋大学、次男を東京大学、三男を東京工業大学に入れて、長男と次男を政治家にさせたいと考え、三男は、優秀なコンピュータプログラマーにしたいと考えていた。

 しかし3人とも起業して大金を掴んで成功しようと考えていて、父親とは、意見が異なっているようで、和彦が、私の言う事を聞かないとなげいていた。次男は、血液型がAB型で1人で、自分の考えに忠実である反面、親や人の意見を聞かないタイプであった。

 大学卒業してハワイに行く事も、直前、両親に話した。そのため電話をかけてくるが、なかなか日本に戻ってこなかった。仕事の方もホノルルのマンション販売の仲介やマンションの管理、サーフィン、ロミロミのインストラクター、観光業の仲介業が、主な仕事だった。
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