第17話:保田さんの遺産と株投資開始

文字数 1,765文字

 葬式の日、1962年7月4日と決まった。その前日、お通夜の日、保田さん奥さんに、成東が呼ばれて、封筒を預かっていますと言い渡してくれた。それには、保田さんが成東が一橋大学に合格した時に、大喜びしたこと、大正時代の船株投資での成功、徳川家の人に、お米売って、小判を手に入れた話などを細かく説明していた。

 そして、最後に自分の子供達は、自立し、ここに帰ってこないだろう。しかし、もし、君が、良かったら、ここに帰って来て、保田一族の面倒を見てもらいたいと書いてあった。そして小判と宝石の埋めた場所の地図が書いてあり、この話は奥さんにも話してあるから、必要な時に換金して、保田家、成東家のために役立ててくれと書いてあった。

 翌日の葬儀は、100人を超える人達が弔問に訪れ、故人の医大を再認識させられた。葬儀後、成東は奥さんに、この話をすると、随分、ロマンチックな話ねと笑いながら言い、ここから東京まで2時間半だし、大好きな魚もおししいし、一緒に老後を暮らしても良いわよと言ってくれた。寂しくなったら、特急電車で東京へ遊びに行きましょうと言った。

 この話を保田さんの奥さんにすると、とても心強いわと、大喜びしてくれた。実は、保田家の子供達は、ここで暮らす気はないと言っており、1人だけでの老後は寂しいと思っていたのよと、話してくれた。ここにgは、大きな家が2軒あるし、無料で、自由に使って下さいと言ってくれた。翌日、市川の家を売りに出して、引越の支度をした。

 その後、8月2日、4LDKの大きな農家を月3万円で借りて住むことにした。成東虎之助の子供達は、それぞれ、既に結婚し、長男、和彦は、東芝本社でモーターの研究の仕事をしていて、同じ会社の3歳年下の鮫島秀美さんと1949年に結婚した。東京・浜松町のマンションに住んで、2人子供、長女と、長男をもうけた。

 次男の研次は、松下電器の本社、大阪府門真市に勤め照明器具の仕事を市、東大阪市に住んていた。そして1951年に同じ会社の2歳年下で地元大阪の商家の娘さん、岩下縞子さんと結婚し2人の男の子がいた。三男の三郎は、日立製作所にで、工業用モーターの研究をしていたが水戸工場の品質管理課長になった。

 そして1953年、4歳年下の同じ会社の人事部の助川智子さんと結婚して、大洗に住み、長女、長男、次男の3人の子供を設けた。助川智子は、地元で漁師と魚料理の店を経営する家の娘で料理上手だった。その影響で、成東三郎も釣りと魚料理が上手になり、奥さん共々、調理師免許を取った。

 成東虎之助は、1965年2月にソニー株に目をつけ40円で10万株、400万円で購入した。その頃、保田家の親戚の人が、成田と銚子で魚料理の店を経営していた。たまに、食べに行くと、実に美味しく、感心していた。しかし、魚の旬は、同じで、同じ時期に、同じ魚を食べることはできるが、保存する事ができなかった。

 そこの経営者の保田伸介さんが上手に保存できたら、大儲けできるのだがと話しているのを聞いた。水戸から銚子まで車で2時間で来られるために、年に5から6回、真鯛、メバル、ヤリイカ、ハナダイ、カツオ、イワシ、マグロを食べに来ていた。そのうち、成東三郎が将来、
魚料理の店を奥さんと一緒にやってみたいと話すようになった。

 そして保田家の親戚の魚料理屋の社長と意気投合して、会社が嫌になったら、奥さんと一緒に、こっちで店をやらないかと言うようになった。1973年4月に、ソニー株が上昇し、1400円となり、8割の株式分割をしていたので、購入した10万株が18万株になっていた。そこで全株売ると税引き後利益22200万円と信じられない金額になった。

 これにより成東虎之助の資産が3億円を超えた。1974年11月に日本電気株を1150円で8万株を9200万円で購入した。やがて1975年があけた。その頃、成東虎之助は、恩師の保田義朗さんからいただいた宝石は全部、売却し、小判20枚は、東京銀座の金業者に預けていた。

 それらの資金を考えて、1975年6月に、三男の三郎に、もし銚子で料理屋をするなら5千万円の融資しても良いと連絡した。すると1975年10月の日曜、成東虎之助の所へ来て、自分達夫婦の資金2千万円と会わせれば店を開けると言った。
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