第22話:成東虎之助の葬儀

文字数 1,402文字

 そして葬儀の案内状の奥さんの優美さんと2人兄弟が、手分けして書き始めた。1時間程で書き終えて、郵便を出し終えた。その晩、亡き虎之助さんの奥さんの優美さんが三郎を呼んで、虎之助さんの遺書を見せた。それには、もし、私が死んだら残った資産は、全て、優美に渡すと書いてあった。優美さんあてに、息子の三郎に助けてもらいながら、残りの人生を生きて欲しい。

 そのために成東三郎に世話になる。そこで、三郎には、商売を広げて、成東家の子孫の繁栄のために尽力して欲しい。具体的には、今やっている商売を成功させる事により、大きな資産を気づきあげ、それを元手に、今後、成東家の子孫達の活躍の役に立てるようにと書いてあった。具体的な事は、三郎に任せるが、くれぐれも、慎重に、子孫達の繁栄を支援してやって欲しいと書いてあった。

 その他、財産目録には、日本電気株、8万株と書いてあった。その後、2月12日となり、葬儀には120人を超える人達が虎之助の葬儀に参列して、花輪も数多く、盛大な葬式となった。銚子市長、千葉県知事など著名人から多くの弔電をいただいた。葬儀を終えて、喪主の三郎が、故人の成東一族の繁栄の祈願の気持ちを代読した。そして旭市の菩提寺に20人で向かい故人の埋葬に参列した。

 その後、成東三郎も55歳になり、そろそろ、自分の息子の成東繁と成東徹に事業を委譲していこうと考え始めた。そして、成東食堂、銚子支店の店長を成東徹、成田支店の店長を成田繁に渡し、父、三郎は相談役になった。その後、1985年、成田店の売上が増加する反面、銚子店の売り上げが上がらないのを見て銚子店を閉めた。そして成東徹に成田空港支店開設しろと指示した

 そして1985年に第一ターミナル店を出店し、1986年には、第二ターミナル店を出店した。その成田空港店が急成長してきたのだった。その後、成田周辺の成田市、佐倉市、富里の中学卒業生、商業高校、普通高校の卒業生を募集して、次々と試験をして合格者を採用していき、1986年には、4店舗で合計54人を採用した。最初は、店舗での料理のサービスが中心だった。

 しかし、その後、店舗での、なめろうコロッケ、魚のフライ、寿司の盛り合わせ、刺身、煮魚、焼き魚の提供をしていたが好評であり出前注文にも応じるようになり、軽ワゴンを6台用意して、1000円以上であれば、自宅まで無料配送するようになった。すると、売上が飛躍的に伸びてきた。また、三郎が社員の中から交渉力のある若者を見つけ出して、交渉のテクニックを教えた・

 そして魚市場で、商品にならない、アジ、イワシ、サバや捕れすぎた魚を現金で値切って購入する方法を懇切丁寧に教え込んだ。さらに、取れすぎて値崩れした魚を大量に現金一括で安く仕入れる方法を教え込み、4人の優秀なバイヤーを教育していった。やがて冷凍のための専用工場を漁師町のと成田の間の多古町に大きな工場を作り、仕入れた魚の大型冷凍庫となめろうを大量に作る機械を入れた。

 これにより料理屋、魚関連商品の原価が更に下がり、利益率が格段に良くなった。やがて1987年を迎えた。4月15日に三郎に証券会社から電話が入り、日本電気株が上昇して、売り時と連絡が入り、26000円で全株、8万株を売った。その結果、税引き後利益18億4千万円の利益が入った。三郎が、そのお金で、会社の借入金5億円を全額銀行に返済した。
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