第13話:旧日本軍の隠匿物がM資金?

文字数 1,420文字

 保田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房には、上記の、「降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた金塊1200本・プラチナ塊300本・銀塊5000トンという大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件」の経緯を追ったドキュメンタリー。同書の冒頭は、後藤幸正という人物が、GHQを訪ねるシーンから始まる。

1946年、太平洋戦争敗戦の翌年の3月23日、GHQ「連合軍総司令部」第32軍調査部担当将校ニールセン中尉の事務所があった東京・丸の内三菱ビル21号館に、後藤幸正「70歳」と通訳が現れ、儀礼的な挨拶をした後、「東京湾の月島付近、旧日本陸軍の糧秣廠の倉庫の近くの海底に、膨大な量の貴金属塊、旧日本軍部の隠し財産が埋められています」と打ち明けた。

 後藤幸正については、「政財界の黒幕と言ったら穏当を欠くが、一種の政商または軍部御用商人だった」と説明されている。蒋介石と親しくて政界に知己が多く、陸海軍の上層部に隠然たる勢力を持っていたが、敗戦により失脚していた。ニールセン中尉は、後藤老人の気骨に剛毅朴訥な精神を認めていたようだと保田氏は描写している。後藤幸正は、本名を幸太郎と言った。

 静岡県富士宮市の旧家に生まれ、富士川の水力を利用して富士川電力を作り、身延線を作ったり、伊豆長岡温泉の開発に尽力した。幸正の孫が、山口組きっての武闘派として知られる後藤忠政「忠正:後藤組組長・六代目山口組舎弟」である。上掲書によれば、金塊等の発見の経緯は次のようである。後藤がニールセン中尉を訪ねた、約2週間後の4月6日、ニールセン中尉が後藤の案内で、部下と潜水夫らを米軍用車に乗せ東京湾月島に向かった。

 潜水夫らが探索すると、レンガ状のものが沈んでおり、引き揚げてみると。金のインゴットだった。インゴット引き揚げ作業は、当初日本側で行う予定であったが、早くも日本側に財宝を巡る争いがあり、後藤がそれを見て嫌気がさして、「米軍に一任します」とゲタを預けてしまったことにより、連合軍最高司令部の判断で、第一騎兵師団が管理することになった。

その結果として、金塊等の引揚げ作業は、米軍の管理下で極秘に行われ、その全容が明らかにされないばかりか、その帰属すら曖昧となってしまった。後藤らは、正当な権利として金塊の日本への返還をGHQに要求するが、結局はタライ回しにされ話が進まない。GHQの関係者も講和条約が成立すると本国に帰った。GHQ側では、最初に係わったニールセン中尉等の少数者以外、日本に返還する気がない。引揚げ作業に係わった日本側の関係者も次々に亡くなる。

 上掲書では、幸正の娘のカズ子にインタビューしている。カス子は、後藤の死については、「父は終戦後四年目に亡くなった。金塊事件で二世のアメリカ兵がよく来ており、毒殺されたのではないかという噂が立った。元気だったのが急に縁側で口から血を吐いて死んだことは事実」と語っている。カス子は、父の死を不審に思っていないようであった。

しかし、関係者も含めて考えるとGHQが、係わっていた可能性は、依然としてとしては否定できない、という書きぶりだ。幸正が亡くなったあと、遺志を継いで金塊返還同志会を作って活動したのが水谷明という人物である。 水谷明は、日本大学政治学科を卒業後、月刊誌などを刊行しながら、政治家への道を志向して「新日本党」という名前の政党を作ったりしていた。
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