風の伝え 1
文字数 5,026文字
朝になって、血で滲んだシーツの上のアティリオ・マルティを商館の使用人が見つけた。
すぐさま医師が手当てを施したのだが、アティリオが意識を取り戻したのは正午に掛かろうという頃であった。
目を開けたアティリオは、それまでずっとベッドの横で看てくれていたクロエに肯いて異母妹を安心させてやる。それから彼女が注いでくれた薬湯のグラスを受け取った。
薬湯を半分ほど体に入れるとアティリオはクロエに向き直り、ペンと紙とを持って来るように云い付けた。
この冬アンダイエで起きたことについて、事変の初日が終わる夕刻には、早くも連絡艇が長官府の命でシラクイラへと飛んでいる。
以降、シラクイラに向け数日おきに連絡艇がアンダイエを発っているが、シラクイラの動きは早く、第一報が届けられるや程なく、事態の確認・収拾のためプレシナ大公アルミロ・ダニエトロの下向を決めている。
大公は間を置かずメツィオを発ち、ひと月 (28日程)の後にはアンダイエに到着している。
その間、長官府の側は
本来であれば聖王の使者に対して〝問題のある〟対応であった。が、正使バルダッサーレ・オレーフィチェはオリンド・ドメニコーニの遺した手紙を受け取ると、憤る副使・随員を制し、右翼館内の用意された一角に入った。そしてそこでシラクイラ・元老院から後続する使者の到来を待ったのだった。
オレーフィチェに生前のドメニコーニとの交友があったことを知る者は多くはない。
一方、ルージューの側も動いている。
事件の翌日にはコレオーニ商館の情報網を通じて事態の推移を把握していたが、アティリオは直接マルティの家に手紙を送った。
一族を代表してアンダイエに入ったのはジョスタン・エウラリオとレオ・マリア…──アティリオの指定である。彼らは10日でアンダイエの商館に入った。
その時にはもう、アティリオは大分衰弱していた。
異母兄弟だけでその夜を語り合ったジョスタンは、陽が昇ると西方長官府の右翼館に次席文官を訪ね、和議に向けての予備交渉を始めている。
数日が経ち、アルミロ・ダニエトロがアンダイエに到着した。
ジョスタンらルージューの者に後れる事15日余。
直ちにジョスタン・エウラリオは面会を求め、大公の面前で此度の衝突について〝申し開く〟こととなった。
先ず
──レオ・マリアが集めた証拠の中には〝名の無い女〟が出元であるものが少なくなかったが、〝裏向き〟の仕事に精通した、この老練なレオ・マリアをして、背後に在った〝アルソット〟の影までを承知はしていない……。
その上でジョスタン・エウラリオは、あらためてのルージュー辺境伯領の
アルミロ・ダニエトロはこれまでに受けていた報告と予備交渉の結果に加え、このジョスタン・エウラリオの〝ルージューの側の言い分〟を押し並べた末に、熟考の態をとり次のような裁定を下した。
此度の西方の
またルーベン・ミケリーノが元老院の付与した権限を逸脱したこと、
これらは記録に留められ、元老院ならびに聖王陛下へ報告される。
さらに、ルージューの地で起きたタルデリ暗殺の首謀者はルーベン・ミケリーノであることを認める。
聖王陛下の代理人たる西方長官を迎えながら、賊の侵入とその凶行を防げなかった
またルーベン・ミケリーノを討ったアロイジウス・ロルバッハについては、ルーベン・ミケリーノの官職の剥奪を遡って充てることで〝私人による仇討ち〟とし、同様にアニョロ・ヴェルガウソのアンダイエでの行動は、奸計に斃れた
事実上の〝事件以前の西方の姿への原状回復〟…──西方長官府の失政を認めた裁定であった。
またこれに付随し、予備交渉での幾つかの合意事項が確認された。
カルデラ南壁の砦は破却される。
ルージュー辺境伯領は
さらに、カルデラへの諸航路の安全の確保にルージューは兵船を出す。それらは1年ごとにアンダイエに供され西方軍の配下とする。なおこれを率いる者は、西方軍の次席武官の1人に迎えられる。
事件に関わった者のうち在地の民の身体・資産を侵害したことが明らかな者については、聖王朝方、ルージュー方を問わず厳罰とする。
他、それぞれの軍令の下にあった兵らについては、何らの咎めはないものとされた。アティリオ・マルティらルージュー方のアンダイエに於ける様々な〝活動〟についても、不問とされている。
そしてその上で、マンドリーニの義勇軍についてはこのままシラクイラへ後送され、本島で解散となることが決まった。
ほぼ西方長官府の〝手落ち〟が正された形であったが、ルージューの側が呑まざるを得なかった事項もあった。
マルティの男子を西方長官府に出仕させることと、姫の1人を聖王プリーニオ・エマヌエーレ陛下の側女に差し出すこと。…──言うまでも無く〝人質〟である。
ジョスタンはこれを呑んだ。
15日ばかりの滞在で、先に聖王宮より遣わされていたオレーフィチェを〝立会人〟として折衝を終えたアルミロ・ダニエトロは、マンドリーニの船団を引き連れてシラクイラへの帰途に就いた。
ボニファーツィオ・ペナーティとジョエレ・ロターリオが、元老院へ詳細の報告のためアルミロ・ダニエトロに同道することとなった。
そうして、シラクイラへの船団がアンダイエを発った日からの翌夜──。
アニョロは1人で長官府の右翼館を抜け出し、
前日のうちに商館のクロエから文が届いていた。
『
彼女に逢うために道を急ぐアニョロには、一方でクロエの
いまこのタイミングで逢いたいといってきたクロエの胸中には、〝思い当たる〟ものがある……。
果たして、石を積んで築かれた船着き場に佇む彼女が面を上げ、月光の中にその貌を見たとき、アニョロは、やはり彼女が〝心を定めた〟のだということを確かめていた。
アニョロの〝
「──よかった……」
アニョロを見上げるクロエの口から、吐息ともつかない声音が漏れた。
当惑の表情を浮かべたアニョロの頬に、クロエが細い指を伸ばして言う。
「どうやら疵は残りませんね」
ルーベン・ミケリーノとの〝弓合わせ〟で受けた傷のことだった。
だがアニョロは、彼女がこの言葉に、それ以上の想いを隠したであろうことにも気付いている。
今宵、此処に来なかったなら…──自分は正真正銘の〝マヌケ〟となって、生涯彼女を失望させただろう……。
〝物怖じをしない〟いつもの表情のクロエが、さり気なくエスコートするよう促した。
アニョロは右側からクロエの手を引き、彼女の歩みに合わせ歩を進め始める。
コレオーニが商館の裏手に拓いた船着き場は一つの区画全体に及ぶが、それでもルージュー城の二の丸の庭園ほど広くはない。そんな場所で2人の足が向くのは、やはり空中桟橋を支える2つの搭だった。
実用一点張りの何とも色気のない石造りの搭を、先導するアニョロがクロエの伸ばす手を取り登っていく。
そんな共同作業で上端を目指す月光の下で、息を弾ませる合間合間に2人は取り留めの無い会話を交わす。
「ああ、アニョロ……あなたはどうしてアニョロなの?」
「なにを今更……」
「応えられませんか?」
「…………。〝名前がなんだというの? バラと呼ばれるあの花は、ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない〟──せめてこんな言い回しなら、もっとずっと可愛げが増すのになあ……」
「…………。意地が悪い。〝恋がもし盲目なら、恋の矢はいつも外れるはず〟とありましたが、貴方に限っては、きっと『盲目』という言葉そのものが欠けしまっているのでしょうね。あんなに矢は当たらないのに」
「…………」
そんな言葉の応酬とは裏腹に、2人は手を伸ばし合い、互いの存在を感じながら歩みを共にしている。
「──春になれば、私はシラクイラに行くことになります」
塔を廻る石段をアニョロに護られて登りながら、何気のないふうのクロエが言った。
承知している。──ジョスタン・エウラリオは、〝マルティの姫の1人を聖王の側室に差し出す〟のに応じた。
この状況であるなら、クロエはマルティの娘の長姉として、自らの責任を果たす道を選ぶだろう。
アニョロは、崩れ掛けた踊り場で、自分が差し出した手を取るクロエを見た。
月の光の下の彼女の顔には惑いの様なものは見て取れない。
自分の方が、わずかな躊躇いの後に訊いていた。
「……〝行くな〟というのは、やっぱり無理かな?」
──我ながら勝手だと思う。
クロエの貌に、ほんの一瞬、嬉しそうな表情が浮かんで消えた。
〝取り繕われた〟穏やかな顔が、静かに左右に振られる。
アニョロは、クロエの落ち着いた声を聞いた。
「プレシナ大公さまから此度の
……そう、アティリオ・マルティはこの聖王朝との折衝の間、表に立ったジョスタンとレオ・マリアを商館のベッドの上から支えた。
毒に冒された身体──その
その彼をして、終に異母妹らを人質に差し出すことを避けることは出来なかった。ジョスタン・エウラリオもそう判断し、アルミロ・ダニエトロの条件を呑んだのだ。
これを
そうであるなら、人質に立つのは長姉である自分…──2人の妹には自分の恋を見つける機会を残したいと、そう考える女性がクロエだった。
それを寂しく思うしかない自分自身に、アニョロは怒りを覚えた。
と同時に、こんな自分の不甲斐無さを思い知ってもいる。
──〝
そんなアニョロの表情に敢えて気付かぬ振りをして、クロエは続けた。
「貴方のことは……忘れません」
語尾の抑揚はあやしかったが、クロエは自分を励まして云う。
「……〝ともに歩くこと〟は、もう、叶わなくなりましたが……変わらぬ友誼を……」
心にもないことだった……。
──〝もう会わないと決めた〟から、今宵、此処に呼んだのだ。
この夜のことを胸の中に留め置こうと……。
終に言葉が出なくなったクロエを、アニョロはそっと引き寄せた。
彼女がその身を預けようというその時──。
風が、人の声を運んで来た。
「姉上……っ」
若いその声はアベル・マルティのもので、その声には常の落ち着きがなかった。
「──
我に返ったクロエが、アニョロから身体を離す。
アニョロは、クロエに肯いてやった。
彼女は身を翻し、石段を1段、2段と、飛ばして軽やかに駆け降りる。
アニョロはそれを追った。
流れてきた雲が、月の光を押し包もうとしている──。