炸風 6
文字数 4,905文字
アロイジウスがルーベン・ミケリーノの卑劣な手により矢傷を負わされた頃──。
ボニファーツィオ・ペナーティが西方長官府から駆け付けたダオーリオの手下との合流を果たしている。
マンドリーニの諸隊は、明確な目的の無いまま市中の各所で孤立していた。
長官府をルーベン・ミケリーノが退いた時点で、マンドリーニ軍は統制を失っていた。
唯一組織だった行動をしていたのは一早く
市中で睨み合う西方軍と激しく戦う前に、〝アンダイエでの戦いは勝負が着いていた〟と言える。
そしてアンダイエの東街区の上空では…──。
「当たったか⁉ やったか?」
ルーベン・ミケリーノらの乗る飛空艇の上で、グエルリーノ・トリヤーニが歓声をあげている。
アロイジウスは一度取った高度を再び建物──多くが〝2階建て〟である…──の屋根すれすれに下げさせて
それで飛空艇の上の射手が矢を射掛ける手を止めてくれれば有難かったが、それが望めなくても、屋根を背景に飛べば幾らか射手の目から逃れ易い。
〝無理な二人乗り〟となって姿勢を崩しながらも何とか速度を落とぬようワイバーンを操っていると、鞍の上の少年の身体が流れようとするのを感じた。
アロイジウスは焦った。
左腕には矢が刺さっている。少年の身体に手を回すことは、出来れば御免被りたかった。
いよいよ身体が落ちてしまおうかというときになって、少年は目を開けた。
自身の身体が〝宙に落ちる〟感覚に、本能的に伸ばした手が鞍の
アロイジウスは〝落下〟を覚悟した。
……が、少年は落ちなかった。
自分の身体が軽いことをよく解っている少年は、腕を巧く畳みながら落ちゆく身体を〝振り子〟にし、脚を大きく振って揺り戻した。そうして身体が後方へ流れるや、咄嗟に伸ばされたアロイジウスの腕をしっかり掴んだのである。
身体の〝ぶれ〟が矢の刺さった左腕に衝撃となって伝わる。アロイジウスは激痛に堪えた。
手綱を操る手を放すことは出来ない。歯を喰いしばり、少年の身体を背中の後に振り回す。少年はアロイジウスの腰に腕を回し、彼の身体は、
「しっかり掴まっていろ!」
アロイジウスは背の少年に一つ叫ぶと、右手で手綱を握り直した。
少年は状況の全てを理解したわけではなかったろうが、しっかりとアロイジウスの腰に腕を巻き付け、しがみ付いた。
アロイジウスは、ワイバーンを大きく
この時、動きの鈍くなったアロイジウスのワイバーンが
飛空艇の長弓兵は
2人は弓こそ放った訳ではなかったが、ときに艇の上空から船縁を掠めるように降下し、ときにアロイジウス騎との間に割って入るように飛び、艇の上の射手の意識を自らに向けさせた。
クロエは、アニョロの操る〝風〟が矢を逸らせてくれるものと、存分に
当のアニョロは、そんなクロエに内心で背筋の凍る思いをしているが、当面、神に祈るより他、術はなかった……。
とまれ、2人はアロイジウスのワイバーンから意識を引き離すことに成功した。その隙にアロイジウスは、始め右に大きく、次いで左に小さく、さらに右に小さく旋回を重ね、長弓の射程から逃れることができたのだった。
ルーベン・ミケリーノは艇の上下左右を飛び回るワイバーンを見遣り、自分の推量が
しかし『ロルバッハ』といい『ヴェルガウソ』といい……、よくもマンドリーニに盾突いてくれる。
アニョロの乗騎が艇尾の方向から回り込もうという動きを見せたとき、それを目で追うルーベン・ミケリーノの口許に微笑が浮かんだ。アニョロ騎の動きを追うことを止めた視線の先に、いつの間にやら飛空艇が飛んでいる。
ルーベン・ミケリーノは、これでどうやら〝楽に勝てる〟状況となったと、ほくそ笑んだ。
その漆黒の艇体には見覚えが有り、
「──ボネッティ……」
ルーベン・ミケリーノは側らに立つ側近に命じた。「……弓と矢を」
ボネッティは自らの近習を向いて招き寄せると、自分の弓を供させる。
それを受け取るとき、ルーベンは前方から回り込もうとする飛空艇を見た。
「御三男殿……」
ボネッティが注意を促す。「──前方に飛空艇です」
「よい」
ルーベン・ミケリーノは、前方の艇がルージュー
上空を併走する〝黒い高速艇〟をチラと仰ぎ見る。
ルーベン・ミケリーノはあらためて視線を艇尾の先の竜騎へと遣やった。
視界の中で、アニョロ・ヴェルガウソのワイバーンが迫る。
弓は手にしているが矢を番えてはいない。……なるほど、追い抜きざまに〝押し捻り〟(※)か。
(※ 体を捻って進行方向の後方に射掛ける騎射法。正面から風圧を受けず、相対速度も小さくなるため狙いやすい。)
ルーベンはそれをさせてやる気はなく、受け取った弓をアニョロに向け素早く引いた。
ルーベン・ミケリーノの放った矢はアニョロの顔を掠め、
それでアニョロは、自らの技量が〝絶望的に〟足りていない事実を痛感する。顔面に矢が刺さらなかったのはアニョロが避けたからではない。彼は動けなかった。つまり、この結果は〝運〟でしかない。
アニョロは〝押し捻り〟をする余裕を失った。ワイバーンが艇を追い越し、無防備な背をルーベン・ミケリーノに
──そんな
ルーベンは不快気に目を細め、アニョロのワイバーンに意識を集中する。
と、2本目の矢を番えた時、アニョロ騎との射線に割って入る動きでもう1騎が視界の中に躍り上がってきた。その背の煌びやかな鎧はクロエである。
クロエは上体を捻って真後ろを向くと腰に手挟んだ手斧を引き抜き、ルーベン・ミケリーノに向けそれを投げ付けた。
西方の兵は剣ではなく〝いざというとき〟に投げ付けることのできる手斧を身に帯びる。
グラディウスの肉厚の刃こそを〝美しい〟と考える聖王朝の武人は、それを〝蛮族の武器〟と嗤うが、事実は違う──。ルージューの手斧は弓よりも少ない動作で投げられる上、女子供の細腕でも安定した軌道で飛ばすことのできる〝洗練された〟武器なのだった。
クロエの
ルーベンが弓を構え直した時には、もうクロエのワイバーンは増速をしてアニョロ騎に並ぼうとしていた。さらに前へ出て先導に入ろうとする。
舌打ちしたルーベン・ミケリーノは、そのときになって艇の上の手下の者の
──なに⁉
皆の視線を追うと、そこにルージューの
ルーベンは反射的に黒い高速艇の〝
女が嗤い、そして頷くのを見た。
それでもルーベンは、女に嵌められたことに思い至れなかった。──女とヴェルガウソ、ルージューとの繋がりを想像することが出来なかったのだ。
驚愕の表情でルージューの
──‼
その目の〝静かな怒り〟を見て取った直後……、黒い影が視野に広がったのを最後にルーベン・ミケリーノの両の目は衝撃と共に光を失った。
ルーベンの口を、くぐもった苦悶の声が吐いて出る。
「──御三男殿!」
側に居たボネッティが、両の眼窩に矢の突き立ったルーベン・ミケリーノに声を上げ、次いでルージュー艇の射手に視線をやった。
視界の中、すれ違うルージュー艇の上で無表情のルージューの三男がゆっくりと弓を下ろすのを見た。
ボネッティは戦慄を覚えた。──10パーチ(≒30メートル)の距離を、1度に番えた2本の矢を同時に放ち、当ててみせたとでもいうのか⁉ だとすれば何という離れ業か……。
アティリオ・マルティは
西方に伝わるこの短弓の〝
「──があああぁっっっ……!」
ルーベン・ミケリーノのその叫びに、ボネッティは我に返った。
いよいよ獣じみた唸りとなったその声に、マンドリーニ兵の手が次々と止まっていく。
それを上空から見て取ったアニョロとクロエは、ワイバーンを艇に近付けるよう手綱を操った。
「──〝神判〟は下った!」
マ軍の戦意が見る間に霧散していく中、クロエが凛とした声で再びの口上を伝える。
「ルージューはルーベン・ミケリーノの首だけが所望! これ以上の流血は望まぬ…──弓を下ろされよ!」
が、これに大人しく従えぬ者もいる。
高度を取って旋回する2頭のワイバーンに向け矢が放たれると、アニョロとクロエは再び距離を取った。
「なにを笑止な!」
その2騎を見上げて叫んだのはオヴィディオ・ボネッティだった。「──我らマンドリーニの将兵はっ、御三男殿の盾となるのが役目! 最後の一兵までも御三男殿をお守りいたすわっ」
彼の気色ばむその言葉に反応を見せたのは1/3が処だった。残り2/3は、既に失った戦意を取り戻すことが出来ず、互いにの表情を盗み見合っている。──その中にはグエルリーノ・トリヤーニも含まれる。
アロイジウスはマンドリーニ艇のその様子を確認すると、ようやく落ち着きを取り戻した同乗の少年に、背中越しに訊いた。
「
少年のしっかりとした声が返ってくる。
「──はい」
「じゃ、こいつを頼む」
言ってアロイジウスは、乗騎の竜首をマンドリーニ艇へと向けた。
そして鋭い降下からいったん艇の底部を回って高度を取り直すことで速度を減殺すると、決して広くない甲板にその身を躍らせていた。
風を感じさせる身の
「おのれぇっ……‼」
一早く反応したボネッティが打ち込んでくる。
それを躱しざま、アロイジウスは
声をくぐもらせ、ボネッティの身体が前にのめる。
その時にはもう、アロイジウスから手綱を引き渡された少年は、ワイバーンを艇から離れさせていた。
鮮やかな手並みに誰もが声を失うばかりの中、アロイジウスは目の見えぬルーベン・ミケリーノと対峙した。
甲板に居合わせる者のみならず、上空を舞うワイバーンの背の者らも、固唾を呑んで見守ることとなった…──。