風の子ら 1

文字数 4,182文字

 朝のうちアルタノン(神殿広場)の石畳を濡らしていた雨は、もう止んでいた。
 午前中は霧に巻かれていたメツィオの街並みも、正午を過ぎれば低い雲は流れ高い雲は西に遠く退いて、見上げれば街の上空は蒼く晴れ渡っている。かように〝浮き島〟の天気は変わりやすい。大地そのものが雲の中を動くからだ。
 メツィオは聖王朝直轄の三つの〝浮き島〟のうち最も大きいシラクイラの中心であり、聖王家の居城フォルーノクイラにもほど近い。〝王都〟というべき街であった。聖王朝の古の知と技によって成された計画都市。聖王朝の政治、文化、経済の中心である。

 その王都は同時にシラクイラを預る三公筆頭プレシナ大公家の本拠地でもあった。メツィオに広大な屋敷を構える大公家は聖王家に連なる名門であり、聖王朝の軍事を束ねる武門の家柄である。

 大公家に仕える軍人貴族=竜騎の家系に生まれ落ちたエリベルト・マリアニはこのメツィオに育った。この年エリベルトは(数え年で)12歳。物静かな表情(かお)の中の蒼い瞳に怜悧さを見て取ることの出来る、そんな少年であった。


 そのエリベルトは当惑していた。アルタノン(神殿広場)の市井の中、エリベルトの前には良家の子弟と思しき煌びやかな出で立ちの少年──年の頃はエリベルトと同じか少し年長かも知れない…──が二人立ち、その酷薄そうな青白い顔に怒りと侮蔑とをそれぞれ浮かべて彼を糾弾している。そして糾弾されるエリベルトの背後には汚れの目立つ粗末なトゥニカ(貫頭衣)を纏うへロット(下層民)の娘が硬い表情で平伏していた。──瘴の上昇によって行き場を失った人々の流入は止まることがなく、シラクイラの中枢であるここメツィオでもへロットの姿は珍しくなくなっている。

 穏便にことを収めるべく間に割って立ったエリベルトに二人の貴族の子弟は退けと迫り、ことを荒立てたくないエリベルトは当惑の表情を返す、という構図であった。なぜこのようなこととなったか。そもそもはつまらぬことなのである。

 ここに至るまでの顛末とはこうであった。
 この日アルタノン(神殿広場)はプレシナ大公家の嫡子アレシオ・リーノの〝竜騎見習い〟への志願に立ち会う一門の者で溢れていた。竜騎への叙任などではなく見習い志願なのであったが、そこはただの貴族の子弟のことではない。聖王家に連なる武門の家の嫡子のそれである。
 一門の多くの家から男どもが出席し、一言祝いを述べようと集まっていた。少しばかり早く〝竜騎見習い〟となっていたエリベルトもまた、一門の御曹司の儀礼に花を添えるべく管区の軍役貴族の子弟としてこの場に在ったのだ。

 そんな中で、アルタノン(神殿広場)で薬膳を買い求めたへロットの娘が勢い余ってここを歩いていた二人の貴族の子弟と接触し手にした薬膳の器を飛ばしてしまった、というだけのことだ。……ただ、薬膳は一人の貴族の礼服に染みを作った。

 貴族たる者がかようなことで民との間に軋轢を生むのは如何なものかとエリベルトは思う。
 確かに周囲の注意を怠った娘にも非はあったかも知れないが、衆目のある場所で厳しく糾弾されるようなことではない。むしろ高価な薬膳を無駄にしてしまった娘を哀れんでやれぬものか。エリベルトという少年はそう考える。
 それで娘と共に詫びてやることでこの場を収めようとしたのだったが、貴族の子弟二人は収まらなかった。むしろエリベルトが間に入ったことが火に油を注いだ。次の瞬間、エリベルトの頬をワイバーン(飛竜)を操る鞭の強打が襲った。
 彼ら聖王朝譜代の門閥に連なる正真正銘の貴族にとり、軍役貴族たる竜騎など名ばかりの貴族に過ぎない。つまりはへロットと変わらぬ存在ということであった。

 エリベルトはいきなり頬を打たれ思わず二人を見返してしまったが何をするということもできなかった。ただ何故打たれたのか理解でき(わから)ず唖然と見返しただけである。目が合うと途端に身体のあちこちを打たれることとなった。鞭が肌を討つ痛みと屈辱とを耐える。そのような同世代の貴族の子らによる理不尽はしばらく続いた。
 何もやり返せずただ耐えるだけだったが、そうすることでせめて自分の背後に平身低頭する娘に鞭が振り下ろされるのは避けられている。そのことだけは満足のいく仕儀と言えた。


「やめよ」
 凛とした声が辺りに響いた。それでようやく肉を叩く乾いた鞭の音が止んだ。
 声の主は射干玉(ぬばたま)の黒髪を肩で切り揃えた美しい少年であった。
 プレシナ一門の宗家大公家の現当主アルミロ・ダニエトロ殿下の嫡男アレシオ・リーノ。当年11歳である。溢れる才気はその幼さの残る優し気な容姿の陰に隠れていたが〝貴族の中の貴族〟という出自に慣れた者の声と所作はたちまち場を収めた。二人の貴族の子弟も良く訓練された猟犬さながら、たちどころに威儀を正してその場に控えてみせる。

「オンツィオ、ポリナーロ。そなた等の振舞いは美しくなかった」
「はい……」
 オンツィオと呼び掛けられた少年は慎重に返したが、いま一人──ポリナーロは一拍を置くとエリベルトの後に平伏する娘を指して抗弁をした。
「──…そこの下賤の娘が私の服を汚したのです!」

 アレシオ・リーノの目がスッと細まった。
「私はそなたの〝振舞い〟が美しくない、と言った。この上さらにあさましい物言いをするとは……」
「そ、それは……」
「控えよポリナーロ」
 さらに言葉を重ねようとするのを側らのオンツィオが遮った。ポリナーロは一礼すると引き下がった。
 アレシオはそんな二人をもはや一顧だにしなかった。鞭で打たれ腫れた顔を伏せるでもなく直立しているエリベルトに声を掛ける。
「おまえは?」
「シラクイラ第2大隊の竜騎リスピオ・マリアニが一子エリベルト」 少し躊躇った末に付け加えた。「──…竜騎見習いであります。お見知り置きを」
「憶えた。()()()()竜騎見習いとな? そなたはプレシナ家麾下の竜騎の誉れを汚すことのない振舞いに徹してくれた。父に代わり礼を申そう」
「はっ」
 アレシオ・リーノのこの物言いをエリベルトは不快に感じなかった。むしろ周囲を納得させるその声音を心地よいとさえ感じ畏まって応答していた。

 そんなエリベルトの後に控えて平伏するへロットの娘にアレシオの視線が動く。
 上目で様子を窺っていた娘は、視線が合う前にさらに深く面を伏せ身を硬くした。
 アレシオはそんな娘から視線を外すと、側らに控えている侍女頭の女に何事か告げて再び歩き出した。彼の動きに合わせて周囲の人が歩みを戻す。市井の人々と共にエリベルトが列を見送る中、オンツィオとポリナーロも一行の後を追って続いた。

 侍女頭の女は平伏したままのへロットの娘の前まで来ると、その付いた両の手の先の石畳の上に、そっと1枚、小金貨を置いた。そうして侍女頭の女は腰を上げると一行の列の中へと戻っていった。
 女の衣擦れの音と遠退く気配で面を上げた娘の肩が、石畳の上の小金貨を目に入れるやびくと小さく震えた。すぐ傍にいたエリベルトでさえ娘のその反応に気付かなかった。

 ぎりっ。
 娘は歯を喰いしばると、身を起こししなに小金貨を掴んだ。
 そしてそのまま大公家一行の列に向かって駆け出す。若い猫のような身のこなしでエリベルトの脇を抜けるや、隊列の先頭を行くアレシオ・リーノを追い越し彼の前に立つ。
 肩をいからせたへロット(下層民)の娘は小金貨を握ったこぶしを突き出すと、緊張した声を震わせつつも叫んだ。

「哀れみなど無用! 施しなど受けぬっ」


 その声にアルタノン(神殿広場)に居合わせた者の衆目が集まった。
 大公家の列の先頭でアレシオ・リーノと対峙したヘロットの娘は、少なくともその瞬間は、確かな輝きを放った。
 アルタノン中の目と言う目が、固唾を飲んで注がれる。
 年若い娘──年の頃は13、4歳か…──は困窮に痩せて身形(みなり)も汚れて粗末であったが、微かに上気した険しい表情は確かな気高さを感じさせた。アレシオ・リーノを取巻く貴族どもでさえ言葉なく娘の方を見遣った。見目がどうということではなく、ただ、美しかったのだ。
 その瞬間は、へロット(下層民)の娘が大公家の貴公子の前で〝対等〟であった。

 そんな中でアレシオ・リーノは娘へと歩を進めていった。供回りの者の動きを片手を振って制し、ゆっくりと近付いて行く。娘は緊張の面差しを崩さず待ち受けた。突き出している右腕がわずかに震えている。アレシオは娘の前に立つと突き出された手を自らの手で取り、その中から黙って小金貨を受取った。

「私が非礼であった」
 小金貨を元の持ち主の掌の上に落とした娘は、そのアレシオの言葉に手を引っ込めた。
「…………」
 アレシオの表情(かお)は神妙で真摯であった。娘はその瞬間に自分とアレシオの身分の差を(わきま)え、気後れするように後退った。そして一際険しい表情となってアレシオの貌を一睨みすると猫の身のこなしで踵を返し、路地の陰へと姿を消した。すぐさま供回りの者が後を追おうとする。

 礼を尽くしたアレシオ・リーノに対し、この娘の所業はさすがに見過ごすことの出来ぬ非礼と思われた。だがアレシオは、再び腕を上げてその動きを制した。
「よい。此度は赦そう」 掌の中の小金貨に視線を落として呟くように続ける。「──私の心無い振舞いがあの娘の気高き心を傷付けた……」
 そう言うとあとは何事もなかったかのように歩き出す。後から一同も続いて歩き出した。


 その一部始終を目に収め一行を見送ったエリベルト・マリアニは、ヘロットの娘の所業とそれを咎め立てぬプレシナ大公家の嫡子の対応に衝撃を受け、いずれプレシナの武門に連なるのであればあのような人物の下で働きたいと幼心に思ったのだった。

 そしてそれは、その年のうちに果されることとなった。
 アレシオ・リーノその人から請われ共に竜騎見習いとして大隊直轄小隊に配されることとなった。こうしてエリベルトはアレシオ・リーノの〝竹馬の友〟となったのである。
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登場人物紹介

■エリベルト・マリアニ(12 →19 ⇒22歳/♂)


竜騎見習い →聖王朝宮中竜騎(アレシオ・リーノ近習衆筆頭)




本作の主人公の1人。蒼い瞳、「麻くず」の色の髪トウヘッド。幼少時より〝物静かな〟顔立ちながら、その瞳に怜悧さを宿していたという。成人後は精悍さが強調されるのはお約束。もちろん均整のとれた長身。


生家は聖王朝の武門プレシナ大公家に代々使える宮中竜騎の家柄で、父リスピオは大公麾下の〈プレシナ大隊〉にあって筆頭の竜騎長である。


アレシオ・リーノの竜騎見習いへの志願の折での〝とある行い〟がアレシオの目に留まり、取り立てられることとなる。以後、彼の半身とも言うべき存在となった。




主人公の1人アロイジウス・ロルバッハの竜騎の師であり、そのアロイジウスの姉ユリアを妻に迎えた。


そのユリアを巡り権門マンドリーニ公の勘気を被り、第1部の後半では近習衆を解任され閑職に左遷の憂き目となっているが、アレシオ・リーノからの信頼は些かも損なわれていない模様。




<メイキングこぼれ話>


モデルは『銀河英雄伝説』のキルヒアイスですよ、それは。(笑)


物語の幕開けの視点の主人公なのに、以降、第1部ではほとんど出番がありません。(汗) 失敗ですねぃ。


でも物語全体ではアレシオ・リーノの片腕として活躍することが約束されているので〝問題無しノープロブレム〟なのですよ!

■アレシオ・リーノ・プレシナ(11 →18 ⇒21歳/♂)


竜騎見習い →プレシナ第2大隊第3中隊長 ⇒第2大隊次席指揮官(プレシナ大公家嫡子)




本作の主人公の1人で、聖王朝三公の1つ、武門のプレシナ大公家の嫡子。黒曜石の瞳、射干玉ぬばたまの髪の美丈夫──女性と見紛う美貌ながら溢れる才気、命令することになれた物言い、美しきモノへの憧憬、貴族たる気概と魂……、そして前線に兵と共に在ることを厭わぬ剛健、という真の武人。(盛り過ぎw)




自らの竜騎見習いの志願の折に出会ったエリベルト・マリアニを〝竹馬の友〟として側に置き、緩慢な衰退の中にある聖王朝にあって、火薬を始めとする科学技術を利用した軍制への改革を推し進めている。


かつては元老院派の論客ランプニャーニ宮中伯に学び武威に慎重な姿勢を見せていた。


なお、自身の傲慢を戒めるためか、幼き日に施しをした〝へロット下層民の娘〟から突き返された小金貨をペンダントとして常に身に付けている。




<メイキングこぼれ話>


当然こちらはラインハルトと思いきや、黒髪の美しい貴公子。現在なら『キングダム』の嬴政な感じでしょうか?


本作全般の主人公。やはり真価は第2部以降……ということに。


ちょっとだけネタバレな感じで言うと、〝ジブリ作品『風立ちぬ』の主人公は自分の理想的な美にしか関心のない残酷な男〟というキャラ分析を読んでインスパイアされてみました。そういう複雑なキャラを描いてみたいです。(笑)

■アロイジウス・ロルバッハ(8 →14 ⇒17歳/♂)


戦利奴隷 →竜騎見習い ⇒独立竜騎(西方軍長官府附き武官/ロルバッハ家当主)




本作の主人公の1人で最年少の少年竜騎。鳶色の目と同じ色の巻き毛の髪。頭の回転が速く弁も立つ。


元はアンダイエの工房職人の子だったが、アンダイエが聖王朝に攻め落とされたことにより姉ユリア共々戦利奴隷となった。奴隷市でロルバッハ砦の独立竜騎ファリエロに救われたことで姉と共にロルバッハの養子となり竜騎となる。




竜騎として養父とエリベルト・マリアニの薫陶を受け、優れた若武者であると共に〝知識の間〟ではアニョロ・ヴェルガウソと同窓という文武両道の者である。


その人物像の最大の特徴は〝誠実な為人ひととなり〟で、理よりも情で行動する。


アニョロとはその妹アニタと共に兄妹同然に育つ。そのアニタとは互いに憎からず思う間柄であるが……。




<メイキングこぼれ話>


いたって〝普通の〟主人公です。多くを語る必要はないという……。(笑)


モデルは安彦良和の『アリオン』の主人公アリオン。


……でも、ちょっと不幸な出来事が続いてますね。ごめんよ、アーロイ。

■アニョロ・ウィレンテ・ヴェルガウソ(18 ⇒21歳/♂)


竜騎見習い ⇒アンダイエ商館長代理(ヴェルガウソ子爵家当主)




本作の主人公の1人。17歳で父を流行り病で失い子爵家を相続した。ヴェルガウソ家はタルデリ宮中伯家を補佐する官吏貴族の家で、画に描いたような中級貴族の家柄。貴族社会の体面は立てるが個人にへつらうということをしない性格で、少々扱いにくい人物。


一応、竜騎見習いの資格はある(師は友人でもあるエリベルト・マリアニ……)が自他共に認める文筆の人で、聖王朝の学術機関〝知識の間〟で学ぶ学徒である。知恵者を気取っている。


アロイジウス・ロルバッハの身元引受人を父から引き継ぎ、彼とは兄弟のような仲。アニタという名の妹が1人いる。




主家の主ポンペオ・タルデリの西方長官着任に伴いルージューの地に赴任、アンダイエ商館の館長代理として聖王朝西方の情報収集を取仕切っている。そういった〝裏向き〟の活動の中でルージューの姫君クロエと出会い、見初めることとなる。


左利き。




<メイキングこぼれ話>


立ち位置的には『アルスラーン戦記』のナルサス(当然ダリューンはエリベルト)。……なのだが、キャラの造形は『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリックな感じ。気の措けない〝身内〟に見せる気さくさと、貴族社会の中での達観した立居振舞とのギャップが魅力……に描きたいものです。

■ジョスタン・エウラリオ・マルティ・ポーロ(20 ⇒23歳/♂)


ルージュー辺境伯マルティ家 次男




本作の主人公の1人。物語の序盤から西のカルデラの側に居る〝いま一人の〟貴公子。(……なのだが、アレシオ・リーノ同様、第1部では余り目立っていない。)


西のカルデラの地に6つの邦を束ねるルージュー辺境伯を世襲するマルティ家の御曹司で、多くの兄弟親族がいる。


聖王朝に先駆けて火薬主体の軍制を模索するなど天賦の〝戦の才〟を持つも、一族に関わる諸豪族の干渉に嫌気がさしており、すぐ下の異母弟アティリオと図って〝出来た弟〟と〝うつけの兄〟をそれぞれに演じ、周囲の目を欺きつつ韜晦していた。


〝果断の人〟の二つ名を持つ。




その二つ名の通りの〝動くべき時の果断さ〟と〝動くべからざるそうでない時の泰然さ〟を合わせ持ち、〝過去に縛られない柔軟さ〟と〝こうと決めたら梃子でも動かぬ頑固さ〟がある。


欠点は、大邦ルージューの御曹司として育ったためか他人の風下に立つことに慣れておらず、侮られることを嫌うこと。が、傲慢であるかと言えばそういうばかりでもない。


政略で名門ユレ家の姫オリアンヌを妻に迎えたが、夫婦仲はたいへんに睦まじい様子。


プレシナ大公家の嫡男アレシオ・リーノを高く評価し、警戒してもいる。




<メイキングこぼれ話>


アレシオ・リーノの好敵手ライバル。精悍で豪快な兄貴系。イメージは『十二国記』の延王 小松尚隆かな。


〝戦バカ〟を触れ回っていますが実は深慮の人のよう。


でも人間としては判りやすく、裏表のないナイスガイを目指します。

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