嵐気 7
文字数 4,077文字
陽が落ちてから3時間程が経った頃、アティリオ・マルティの姿はコレオーニ商館のベタニア・パルラモンと共に、市中の西を受け持つ警衛の詰所にあった。
此度ばかりは
ベタニアが〝コレオーニ商館がアロイジウス・ロルバッハの身柄を引き受けに来た〟、と告げると、詰所の門衛は一旦奥に消え、程なくして戻ると2人を中へと招じ入れた。
先に遣った商館の使いの者を通じ〝袖の下〟を握らせた形を取ってはいたが、恐らくこうして訪問するであろうことは先方も承知していると、詰所の小さなホールに入るや、アティリオは
然程待たされることなく、奥の扉が開いた。入って来たのは1人……、魔導の者の纏う暗い色のローブ、という出で立ちだった。
誰の姿が現れるのか…──実はアティリオにも見当など無かったが、長官府の首席文官オリンド・ドメニコーニかそれに連なる
怪訝に眉根を寄せたアティリオに、ローブの人物が深く被ったフードの下から声を発した。
「随分と時間が掛かりましたのね?」 若い声…──そして、それは女性のものだった。
アティリオは警戒を深める。
これ迄の
そんな内心を隠しつつ、会話の主導権を奪われぬように
「ドメニコーニ殿が赴かれることも有ろうかと
言いつつ、ローブの女の目深に被ったままのフードを見下ろして、わずかに首を傾げてみせる。
それで女も自らのフードを下ろし、正面からアティリオを向いた。
蝋燭の灯りに顕となった貌は、成熟した
側らのベタニアの娘と言ってよい年頃と見て取れる。22歳のアティリオと同年輩だろうか。
そんな若い女のその貌には、翳があった。
女が、静かに口を開いた。
「失礼の段はお許しを……。わたくしに
揺らめく灯りに浮かぶ女の顔に表情は薄い。微かに笑みを浮かべると、落ち着いた声でそう言った。
「…………」
一層警戒を深めたふうのアティリオを一顧だにせず、女はいきなり本題を語り出した。
「──…アロイジウス・ロルバッハは聖王朝への謀叛の廉で軍に引き渡すことになります。早晩、ルーベン・ミケリーノさまの面前に引き出されることになりましょう」
その言葉の内容と慇懃ながら礼を失した言動に、側らでベタニアが息を呑んだ。アティリオも目を細めて問い質した。
「オリンド・ドメニコーニによる手配か?」
女は曖昧に肯いて返した。
アティリオは目を瞑ると鋭く嘆息した。
「ドメニコーニを見誤った、というわけだ。〝周到の人〟などと
自嘲の笑みを浮かべそう悔恨を口にするアティリオに、女が言葉を重ねる。
「──…いいえアティリオさま。これも〝ルーベン・ミケリーノを除く〟という目的の一環……」
不思議な事を口にし出した女にアティリオの目線が探る様なものとなる。すると女は、その目線を確かめるや嫣然とした笑みを初めて浮かべた。
「アロイジウス・ロルバッハには、ミケリーノさまを見事討って頂かねばなりませぬ。そのために一芝居を打たせて頂いた次第……」
どうやら女には〝彼女の事情〟があり、アティリオらの与り知らぬ処で〝ルーベン・ミケリーノを除く〟ために動いているらしい。そのためにアロイジウス・ロルバッハを利用させてもらう、と言っているわけだが、何でその様な〝手の込んだ〟手配をするのか。アティリオには解らない。
ただ、アティリオの側に〝拒否〟という選択肢は無さそうである。
──余程に大きな話の流れの中にアロイジウスもルーベン・ミケリーノも組み込まれているらしい……。
アティリオは、女の
内から覗く〝凛としたもの〟と、その人生で意に沿わぬもの──例えば〝世を渡る上での不浄〟──を多く見てきた故だろう若いに似ぬ〝諦観〟とが同居している女の顔には、場の
アティリオは不本意ながら後手に回ったことを自覚した。が、〝芸が無い〟のを承知の上で、鳴いてみせねば気が済まなかったのも事実である。
咄嗟に、しれっとした表情を顔に浮かべ、
「さて……、一体どういう事なのか?」 小首を傾げて見せる。
女は、そんなアティリオをあしらう様に微笑んで返した。
「多くは申せませぬ……ですが、皆さま方がミケリーノさまをお手にかける……それは〝我が
劣勢の挽回は成りそうにはなかったが、女には〝
「その主人とやらは一体誰なのだ?」
それには応えず、女は目だけで嗤って返した。どうもこれは、〝主人がいることは口にさせた〟のではなく、そう仕向けられたというのが本当の処かも知れない……。
そんなアティリオの心中を見透かした様に、女は先を続けた。
「アロイジウス・ロルバッハの身柄はお預りします。引き渡しを装ってミケリーノさまに近付ける段取りについてはお任せを。連絡はコレオーニの商館に遣いを遣りましょう」
有無を言わせぬ言で語られた彼女の筋書きの中に、しっかりとアティリオらは組み込まれていた。
言うまでも無く拒否権はない。彼女の許にあるアロイジウスの身柄は、そのまま
面白くない、という表情を押隠すアティリオに、女は最後に念押しのように言い付けた。
「──皆さま方は西方軍の〝束ね〟を。〝網の
アティリオは片方の頬の筋を引き上げただけで無言で応えた。
〝竜の巣〟だと思って踏み込んだ先は、どうやら〝魔女の宴の館〟であったらしい……。
──それより少し前……。
囚われの身のアロイジウスは、
担架に乗せられたアロイジウスの傍らには硬い表情のソニアの姿がある。感情を無理に押し殺した顔のその目には複雑な光が宿っていた。
カルデラでの戦いで味方を裏切ったアロイジウスを〝
獄に繋がれ抵抗しないアロイジウスを警棒で打ったときの感触は嫌なもので、とてもあのまま打ち続けて彼の命を奪うことは彼女には出来そうになかったが、それでも暗く冷たい獄の床の上に放置された彼が、衰弱し死に至るのは構わないと思った。アロイジウスは
だからあのローブの女が意識を失った──
だが女は、そんなソニアにフードを下ろすや豹変した。
女の素顔はソニアが思っていたよりもずっと若かったが、その老成し感情を十分に御す術を知る綺麗な貌が、冷たく彼女を見下ろして言ったのだ。
「小さなことに拘って、いつまでも我が身を儚んで泣くのはお止し」 と……。
女は、反駁の言葉を探すソニアの口を開かせずに続けた。
「オマエが想い人を奪われた不条理は、この男を殺したところで消え去りはしないだろう? そんな不条理はいつだって世に溢れてるんだからね。
それでも〝そんな不条理はご免だ〟って、そう思って、
そう言った女の目は、どこまでも暗かった。
〝
「なら小さなことに拘ってるんじゃないよ。
つまらないじゃないか。
自分のしたことに罪の意識を感じながら、この先ずっと生きていくのに吊り合うようなことじゃないよ」
ソニアは逡巡し、息を呑んで女を見遣る。
それは事実と思えた。
現に暗い獄の中で無抵抗のアロイジウスを打ち付けた際の感触が、まだ手に残っている。
女はそんなソニアの顔を両の手で挿むと、一つ頷いて、云い聞かせるように言った。
「理解できたかい? ならここはあたしに任せて言う通りにするんだ。
アロイジウス・ロルバッハは
気圧されたソニアが小さく肯く。
それを見て女は、口元に残忍な笑みを浮かべた。
「どの道この男は〝我が主〟の不興を買った。
それから女は、何気ない感じに付け加えた。
「──オマエが望むなら、この男が苦しむ様を見届けられるよう、〝我が主〟の下に迎え入れてやろう」
ソニアは女の持ち掛けた話を呑んだ。
だから今はアロイジウスは殺さないでおくことにしている。
女の暗い光を宿した目をまともに見とき、吸い込まれるような感覚を覚えたのを、ソニアは憶えている。