風鳴 1
文字数 4,592文字
戦いが終わり、夜の帳の降りる頃…──。
カルデラ外輪……西に連なる峰々もだいぶ北に寄ったマールロキン領に程近い台地に、4頭のグリフォンが翼を休めていた。側らには12人の人影がある。
西の空の残光の中に小さく2つ……飛空艇のシルエットが浮かび上がるのを見て、彼らは手にした
程なく2隻の飛空艇は近付いて来て静かに着地した。2隻のうちの1隻──それは黒塗りの快速艇だった──の船上にフードを目深に被ったローブ姿の人影があり、声を掛けてくる。
「ご苦労様。上首尾でしたね」
若い女の声であった。
12人の中の1人が応える。アロイジウスの誰何に応えた、あの男の声だった。
「報酬の残りを!」
「あちらの
男が背後の11人に顎で示すと、彼らは艇から降ろされた板を上って艇上に消えた。1人残った男が女に訊く。
「マールロキンには、どれ程潜んでいればいい?」
「3ヶ月ほど……」
「その間の住食は〝そちら持ち〟だな?」
そう重ねて訊いてきた男に、女は肯いて答えた。
「酒も十分に用意してございます……。ですが女は
男は鼻で嗤った。
「
女はそんな言に取り合わず、
「──…〝与えられた館より一歩でも出れば、矢を射かける〟……とのことです」 取るに足らぬことを付け足すように冷たく言う。
男は肩を竦めると用意された飛空艇へと歩を進めた。
彼らは、アルソット大公家の末娘パウラ・アルテーアの下で暗躍するあの〝
シラクイラやユレで集められた彼らは、ユレの浮き島で十分な訓練をした後、ユレの商船の船腹に隠れてカルデラの地まで運ばれ、〝仕事〟のときまでをその船中で待ったのだった。
そして首尾よく仕事を終え──アロイジウス・ロルバッハが〝手引き〟したように見せかけることまで成して──、女の用意した経路でマールロキン領内の隠れ処に逃れようとしているところである。
女は彼らを乗せた飛空艇を見送ると、台地に棄てられ残っていた
それから飛空艇に戻ると、船頭に命じて台地を後にした。
彼女らの進路は南……それから東、である。
カルデラ南壁での戦いから2日が経ったカプレント…──。
この港街に在所するアンダイエ商館の門は閉ざされていた。開戦に際し、先だってのルージュー一族の言に従って商館長代理のアニョロ・ヴェルガウソが命じた仕儀であるが、開戦の一報とその経緯についてはコレオーニ商館を通じ、他ならぬルージューからもたらされたのだった。コレオーニを率いるピエルジャコモという男は、そのルージューの政商である。
その堅く閉ざされた門扉をルージューの〝周到の人〟アティリオ・マルティと、その異母弟〝配慮の人〟アベル・マルティとが軍使を示す白旗を掲げて叩くと、アニョロ・ウィレンテ・ヴェルガウソは2人を人気の無いホールへと通し、自ら立ったまま出迎えた。
開戦の一報の後、外部から何ら状況は伝えられては来ていなかったが、アニョロには彼らが商館を訪れた理由が判っていた。
「……では、マンドリーニ軍は邦境に留まり、ルーベン・ミケリーノを取り逃がすことになったわけか…──」
それまでルージューから語られる〝戦の顛末〟を黙って聞いていたアニョロ・ヴェルガウソだったが、アティリオが語り終えるや初めて皮肉な目線を向け、失望を顕にそう言ったのだった。
アティリオは黙って肯いて返した。
それが無礼な言い様であったことよりも、まるで〝戦の結末は受容できてもルーベン・ミケリーノの身の安泰は容認できない〟とでも言いたげな、不穏な光を目に宿した物言だったことに、同席していたアベル・マルティは怪訝となった。
目の前の聖王朝の官吏貴族──同じ母の姉クロエが夫に選んだ男──の
だがアベルは、慎重に2人のやり取りを追うことにし、静かにその場に侍した。
アニョロ・ヴェルガウソはその後しばし黙り、やがて意を決したように一つ頷くと、アティリオを向いて口を開いた。
「この状況で〝手打ち〟とは、ルージューにとって都合が良過ぎるのではないか?」
と、厳しい
「ルージューの側から〝騙し討ち〟をしている。聖王朝が退くとは思えんね」
アティリオはその断罪を否定しなかった。此度の〝
それはタルデリの死後とはいえ〝戦口上〟でマルコに告げさせている。ルージューとしては、この件に関しては申し開きをするつもりはない。
アティリオは柔らかな口調を変えずに応じた。
「──…とは言え、
「……手緩いな。ルーベン・ミケリーノがこれを受けると思うか?」
鼻で嗤ってそう問うたアニョロに、内心でアティリオは表情を曇らせた。これほど攻撃的なアニョロ・ヴェルガウソは
「恐らく受けはしまいが、それならそれでよいとも思っている。我が
そんなアティリオに、アニョロはいきなり言った。
「──私がルーベンを討とう」
アティリオとアベルが再び目線を交わすのを前に、アニョロは言葉を続けた。
「奸計を以ってルーベン・ミケリーノを討つ。あの男を除けばマンドリーニの私兵団は霧散する。マンドリーニに乗せられた元老院も、それで再び考えを改める」
「それは……」
そうであろうが……なぜアニョロが
「ルーベン・ミケリーノは赦せぬ」
その声音には押さえた
「解らない。
アティリオがいよいよ怪訝とばかりに言葉にして質す。するとアニョロは重い口を開いた。
「
アティリオから表情と言葉が消えた。
アニョロは妹の身を襲った奇禍と、それに係わるルーベン・ミケリーノの所業を手短に語った。話を聞き終えたアティリオの口からは、何の言葉も出てこない。〝寝耳に水〟のことに感覚が麻痺してしまったかのようである。
そんなアティリオから、アニョロは視線を下ろした。
妹の死にこれほど衝撃を受けるとは……やはりアティリオ・マルティは、アニタを愛してくれていたか……。
「──…いま一つ……」
アニョロは無理に感情を押し殺した声で続けた。
「クロエ殿との
「…………」
さらにしばらく沈黙があって……ようやくアティリオが口を開こうとする。
「それは…──」
だが言葉はともかく声が出てこないようであった。
それでも唇を湿らせたアティリオを見て、〝配慮の人〟アベル・マルティが言葉を引き継いだ。
「それは
14歳にして思慮を感じさせる声質である。アニョロは目を細めると、首を小さく振って応えた。
「私は〝私の復讐〟を成したい。
そう言ったアニョロに、アベルは若い表情を曇らせた。そんなアベルを〝いい少年〟だと感じながら、アニョロは、
「
扉が静かに開いた。
3人の目が、そちらを向く。入室してきた人影は真っ直ぐに歩いて来て、アニョロの前で停まった。
クロエだった。
「本気ですか?」
アニョロを見上げて、小さく壊れそうな声音でそう訊いたクロエは、黙って肯いた彼にいちど目を伏せた。長い睫毛が濡れたようだった。が、あえて口許に笑みをつくり、目を上げた。
「そう……」
微かに震える声で言った。
それを見送ったアベル・マルティは、溜息と共につぶやく。
「あのような
そしてアニョロに向き直るでもなく、ただ聞こえるように言った。
「──姉上は貴方にこう言って欲しかったのでしょうね……〝傍から居なくならないで欲しい〟と……」
アニョロは韜晦したがその表情は苦いものだった。
アベルはまだ生気のないアティリオの顔を見遣ると、その目を覗き込んで目線を交わし、アンダイエの商館長代理に告げた。
「明日に日を改めます。当方の話はその時に……」
そうして一礼すると、2人のマルティは商館を辞した。
帰りの門扉を潜った後、アベルはあらためて姉のことを言った。
「あんなしおらしい姉上は想像できませんでした」
アティリオは頷いて返したが、その表情の硬さがアベルは気になる。このように陰に籠った異母兄の
「どうします?」
アベルは敢えて訊いた。アティリオは低く応える。
「ジョスタンに頼む。いまのクロエに声が届くのは兄上しかいまい」
その言にアベルは肯いた。〝クロエの件〟の他の
陽が落ちてその日が終わり、夜になった。
クロエは部屋に戻ってベッドに腰を下ろすと放心し、そのまま座っていた。
気付くと涙が溢れており、頬を伝っている。
彼女は、そのまま声を殺して泣いた。
あの日、求婚の言葉でアニョロは、〝ルージューの姫としての幸せはいらない〟と私に言わせたのではなかったか……。
アニョロは、妻と定めた
そう言ってくれなかったことが哀しくて涙が溢れた。
そして、泣き濡れるクロエの中には冷静なクロエもいる。
おそらくアニョロは死を覚悟しているだろう。
〝奸計を以って…──〟とアニョロは言ったが、〝妹の仇を討つ〟との文脈の中で最後の局面となれば、彼は正面からルーベン・ミケリーノに弓を引くのではないか。クロエはそういうアニョロを感じ取っている。
正規の聖王朝竜騎であるルーベン・ミケリーノといまだ竜騎見習いでしかないアニョロ……。
生身の身体で渡り合うのであれば、結果は火を見るよりも明らかである。
アニョロは、私が寡婦となるのを避け得ないと考えてこの
まさか自分が、ただ泣くだけの、この様な〝か弱い女〟であったとは……。
そんな自分を思い描くことなく育った彼女は、これまでの自分が本当の自分なのか、