暁風 4
文字数 5,272文字
「──…それで、勝敗の方はどうなったんだ?」
夜になってポンペオ・タルデリに
「無論、勝ちましたよ…──12射目に〝御曹司殿〟が外し、俺は当てた」
そう応えたアロイジウスの表情は、何ともすっきりとしていなかった。
ルージュー一族の有力者からの勝利を誇るべきか、妹とも言える知己の体面を保てたことに満足すべきか、それとも貴人に対する礼を失した振舞いを恥じるべきか……。
事の発端と言ってもよいアニタの姿は、いまこの居間にない。
アロイジウスが何とか取り澄ました表情でいられるうちに、アニョロは何とは無しを装って訊いてやった。
「距離は?」
「10パーチ(≒30メートル)。的は半キュビット(※1キュビット≒45センチ)の物だった」
「なるほど……」 アニョロはフっと笑った。「──
アロイジウスは口許に運ぼうとしだ
「アティリオ・マルティ・アブレウはアレで短弓の名手だ。10パーチの距離で的を外すというのを俺は見たことがない。勝ちを譲られたんだよ」
「…………」 アロイジウスは、たちまち片方の眉を上げた。「な、なんで?」
「さて……」
アニョロは態とらしく顎に手をやった。
「それはやはり、
言ってニヤニヤと人の悪い
「──…ところで、〝義兄殿〟からは何と言われて送り出されてきたんだ?」
そういう年少の友を微苦笑で見守りながらアニョロは話題を転じてやった。
アロイジウスはわずかに胸を張るようにして応えるのだった。
「〝竜騎たるを忘れるな〟、と」
「また、何とも武骨な……。アイツらしいといえばアイツらしいか……」
アニョロは苦笑すると、自分にとっても竜騎の師である、アロイジウスの〝義兄〟の顔を思い描いた。
アイツとは竜騎エリベルト・マリアニである。
エリベルトと(アロイジウスの姉の)ユリアが結ばれたことで、
その紆余曲折を説明しよう──。
昨夏、マンドリーニ公爵家の三男ルーベン・ミケリーノに一方的に思いを寄せられたユリアは、もうその時にはエリベルトと相思の仲であった。なのでユリアは、自らの想いがエリベルトにあることを公爵家の三男に告げて丁重に断った。
さて一方で袖にされた形のルーベンは卑劣な男であった。家の権勢を以って有形無形の圧力を掛けることができるとユリアを脅し、事実そうした。──養父ファリエロに対し
対してファリエロは、穏便に、しかしながら冷淡に、その公爵家の要求を拒んだ。
またマリアニ家の当主リスピオは、息子エリベルトの心の内を確かめると、後はもう何も言わず公爵家のやり様に無視を決め込んだ。
結果、ファリエロは叙爵を見送られ、リスピオの一人息子エリベルトは〝アレシオ・リーノの『近習衆』〟を解任されることとなった。マンドリーニ公爵家の力である。
そういったことはユリアに大きなショックを与えた。
元々は気丈な女性であり男勝りといってもよい気の強さを隠し持った彼女である。ことが自らの身一つに係るものであれば、貴族のドラ息子に平手打ちの一つでも食らわして終わりにしたろう。その後はシラクイラの社交の場から姿を消して、そのような場には2度と近付かぬ人生を送ったろうか……。
──実際、
が、ルーベン・ミケリーノの手が、敬愛してやまぬ養父と、初めて運命を共にしたいと想った
自分が我を張れば、周囲のものに理不尽な仕打ちがもたらされる。その事実は重かった。
いっそルーベン・ミケリーノの側女として彼の館に入ろうか、と半ば諦め半ば覚悟を決めて呟いた姉をつい弱気だと詰ってしまったアロイジウスは、その姉に「では、どうすればよいの!」と涙ながらに激しく詰め寄られ、何も言えなくなってしまった。そういう姉の姿は始めて見た。
そうやって一度は全てを諦めてルーベンの館に入ることを承諾したユリアを救ったのは、
老竜騎の妻はロルバッハ砦から飛空艇を出すと、マンドリーニ家の別館へと娘を運ぶ艇の舵を自ら握った。そしてその途中で
ロルバッハの家のことを思い、マリアニ家に迷惑を掛けまいと、自分の心を必死に殺そうとしていたユリアだったが、ノルマからそうすることを勧められればもう迷いはなかった。
ワイバーンの背に乗ると、その足でマリアニ家の屋敷に待つエリベルトの許に飛んだ。
ノルマはそれを見送ると、そのまま飛空艇をマンドリーニ家別館に運び、一人で館に入るや一向に悪びれずに茶など所望して泰然と過ごした。翌朝となり、ユリアがマリアニ家の屋敷でエリベルトと婚礼を挙げたとの報が別館に伝えられると、悠然と一礼して老婦人は館を辞したのである。
さて、そうと知ってもマンドリーニ家は〝仕返し〟をすることはできなかった。
このときに
殿下はそれから数日をマリアニ屋敷で過ごし、ルーベン・ミケリーノはユリアを諦めるしかなくなった。また母ノルマに〝意趣返し〟をすることも、さすがにできなかった。
ノルマが事前に大公殿下へ宛て出していた、殿下との〝個人的な友誼〟を頼っての手紙の結果であった。
そういう顛末があってエリベルト・マリアニは、アロイジウスの義兄となっていた。
その義兄殿は『近習衆』を解任された後は東方軍附きの造船所に配属され、
とまれ幸せそうな新婚生活を送っている姉と義兄を、アロイジウスは西方長官附きの命を拝受した際に訪問した。
聖王朝=元老院の次なる標的が〝西のカルデラの地〟であることはもはや明らかで、その西方の軍事も管掌する西方長官配下の竜騎として下向するに際し、元〝アレシオ・リーノの『近習衆』筆頭〟から
それでアロイジウスは、義兄から〝竜騎たるを忘れるな〟との言葉を掛けられ、ここ〝西のカルデラの地〟ルージューに赴任してきたということなのであった。
(──〝竜騎たるを忘れるな〟、か……。)
その短い
そして、ほぼ同じ頃…──。
ルージュー辺境伯の居城マルティ──その居館の一つにアティリオは
婚礼を控えたマルティ城は多くの者が忙し気に立ち回っていたが、当の〝
アティリオは、昼のカプレントのアンダイエ商館で商館長の妹姫に引き合わされた少年のことを
「──…それで、勝敗の方はどうなった?」
が、そうすると自然に話は〝
アティリオは、長椅子でカルデラ名産の
「負けてやりましたよ。……〝周到の人〟は大人ですから」
「ふん」 ジョスタンは鼻で嗤って言った。「では、その竜騎の小僧相手に〝弓比べ〟をして、我が弟は負けて帰ってきたということだな?」
「そういう言い方をしたければそれで結構……」
少々大人気のないことをしたという〝恥じ入る思い〟もあって、たちまちアティリオは口を閉ざしてしまった。
ジョスタンは
「俺の〝うつけ振り〟も板に付いてきたが、この上お前までそうなっては、父上が余りに憐れだ」
そう言ってジョスタンは嘆息するように肩を竦めてみせる。アティリオも結局は苦笑して頷いて返すことになる。
──この2年ほど、ジョスタンは〝うつけ〟を装っていた。それと対照するふうに、アティリオは絵にかいたような〝出来息子〟を演じている。
兄が思い立ったこの筋書に弟が気脈を通じることで、そういう風聞は
ルージュー一族…──マルティ家は一丸ではない。〝長幼の序〟(生まれの順)を盾に取るしかない愚昧な次兄と、聡明な三弟とがカルデラの跡目を争っている、と……。
そう
「一族内の〝
「──7対3で〝アブレウ〟かな……」
「…………」 さすがにジョスタンは嘆息した。「花嫁こそ憐れだな。このように〝人望のない御曹司〟に嫁がされるとは……」
「この台本に父上を引き込まなかったツケでしょう」
「まさかユレの姫君を俺に宛がおうとは……」
ジョスタンとアティリオの〝狂言〟を、父であるライムンドは知らない。
故に息子の不肖を案じた
ユレ家の2つの浮き島は、
アティリオは〝他人事の笑み〟を
「今さら愚痴など……。明日は婚礼ですよ。可愛らしい花嫁じゃないですか」
オリアンヌは確かに〝可愛らしい〟娘だった。
ジョスタンの方も負けてはいない。意地の悪い表情を作って言い返した。
「ふん。そちらこそどうなのだ? アンダイエの商館長の妹姫…──、似合いと思ったがな」
「…………」
アティリオは深入りをせずに韜晦してやり過ごした。
(仕方ないだろう……。私よりも余程に似合いと感じさせられたのだから)
心に浮かんだ〝
と、兄の…──何年か振りかの──、労わるような声を耳にした。
「──…〝周到の人〟として〝出来息子〟を演じるのは辛いか?」
「…………」
アティリオは口許だけで笑ってみせた。
「今さら労を
「おお。さすが我が弟は物分かりの良い男だ……」
兄ジョスタンも笑って応じた。──…
「俺の代わりにルージューを継いでくれれば
途端に弟の表情が渋くなった。
「そればかりはご勘弁を……。それでは好いた女性に想いを告げることすら叶わなくなる」
言って息を吐いた弟を、兄は一際大きな声で笑うのだった。