突風 1
文字数 4,306文字
蒼い夜を背景に赤い炎が砦を包んでいた。
アニタは絶望の中でそれを見ている。
心の中で問い掛けた。
──なぜ……どうしてこんなことに……。
あの出血である。助かるとは思えなかった……。
それぞれの身体は朱に染まり、無造作に打ち棄てられるがままであった。
それをアニタは、どうすることもできなかった。
──兄さま……。
自分がカプレントの
脳裏の中のアニョロの聡明な
視界が大きく流れて、その後は揺れた。
飛空艇の敷板の上に乱暴に放られたのだ。
見上げた視界の中……月明りの中で黒い人影が2つ、アニタを見下ろしていた。
「随分と手こずらせてくれた……」
人影の一人が言った。
「ほーんと……〝面倒ごと〟増やしてくれちゃって…──」
いま一人が応じた後、背後のロルバッハ砦の惨状を見遣った。
「あーあ。こんなんなる前にあんたが出てきてくれれば、みーんな助かったのに」
酷薄な響きを含むその言葉に、アニタは肩を震わせた。
自分を引き渡すよう迫った彼らの要求を、義父さまと義母さまは拒絶した。
その結果が、義父と義母の死と、砦に逃げ込んだ女子供らの惨状であった。
殺された者も、殺されなかった者も、この夜の彼女らの〝悲惨さ〟は言葉にできない……。
──そうだ。このケダモノたちを呼び込む理由をつくってしまったのは、私だ……。
男どもを見上げる目線に、力が入らなかった……。
「あれれぇ? 責任感じちゃったかなあ?」
男の一人の口許に下卑た嗤いが浮かんだ。
「さすがに貴族の娘というわけ? ……かーわいいなー」
そして背後で立ったままでいる相方に訊いた。
「なぁ、俺たちにも役得があって、いいよな?」
相方の返事を待たず、男は再び腕を伸ばしてきた。
消えかかった蝋燭の焔が最後に大きく一揺らぎするように、〝怒り〟がアニタの心の中で燃え上がった。
「下がれ、下郎!」
反射的に腰の短剣──アロイジウスから贈られたそれ…──で男の手を切りつけていた。
男が血の滲む手の甲を押さえて引っ込めた隙に、身を起こして後ろに跳び退った。
半歩も退れず、すぐに縁だった。
──ああ、アーロイ……。
涙が滲んだ。
男がゆっくりと近付いて来た。
その顔は怒りで真っ赤に歪み、その凶暴な目には嘲弄と愉悦とが浮かんでいた。
男が舌なめずりをし、飛び掛かろうと腰を沈めた。
──ごめんなさい……。私、
手の短剣を咄嗟にかき抱くようにした。
──コレには耐えること……できそうにない……。
アニタは敷板を蹴って、船縁から宙へと跳んだ…──。
「なに? ロルバッハの砦が燃え落ちた?」
ルーベン・ミケリーノがそれを〝島嶼諸邦に置いた留守居部隊からの〟使者から伝えられたのは、座乗船〈ミアガルマ〉の船尾楼の中であった。すでに船団はムランの空中桟橋を発ち、西のカルデラの地へと進んでいる。
ルーベンは一応は使者にことの次第を質した。
使者の伝えるところに依れば、〝ルージューの船を導き入れた
砦の女どもを飢えた男どもが襲った、というのが実の処である。
マンドリーニ軍の4分の3を率いて島嶼諸邦を発つに当たり、ことさらこのような仕儀となるよう指示したわけではなかったが、このとき臨検に送り出した手下の者共は金で集めた〝ならず者〟といってよい輩であり、砦にあった女どもに手を出させぬよう指示を徹底していなかったのも事実であった。
少なくとも責任の一端はルーベン・ミケリーノにあると言える。
そのルーベン・ミケリーノは現地で
そしてその後、使者に事態の発端となったアニタ・ヴェルガウソについてもう一度だけ質した。
「それでアニタ・ヴェルガウソは瘴の雲間に落ちたのだな?」
言葉少なく頷いた使者に、ルーベンは事も無げにこう言っただけである。
「そうか……。それは惜しいことをした。あと2年もすれば〝いい女〟となったろうにな……」
それでこの件については〝終わり〟としたのだ。
そのルーベンに使者の男──フルヴィオ・ガスコは、凄惨な最期を遂げることとなったファリエロとその妻の遺骸について、どうしたものかと後の処置について質している。
煩わしいとばかりに下がらせようとしたルーベンに、それでもガスコは食い下がった。この不興を承知の上での行動で、事後の処置は彼に任されることになる。
ガスコはロルバッハ砦に戻ると夫妻の遺骸をきれいに洗い清め、砦の中庭の墓地に丁重に葬った。
それから事の仔細を書面に2通起こし、1通をカルデラの南の〝浮舟の砦〟に詰めるアロイジウスの上司ボニファーツィオ・ペナーティに、もう1通をカプレントの商館に在るアニョロ・ヴェルガウソの許に送っている。アロイジウス・ロルバッハには直接送ることはしていない。
このことについてもう興味のないルーベン・ミケリーノは、船団を一路〝カルデラの南〟の空の方角へと急がせている。
それより12日の後の〝浮舟の砦〟…──。
その砦に入った竜騎らに
ロターリオの手にはフルヴィオ・ガスコからの書面があった。
やがて読み終えたロターリオは、言葉なく書面を丁寧に巻き取って言った。
「これはもうアロイジウスのヤツに……?」
「いや……まだ見せていない」
「
ロターリオは不機嫌そうな
ペナーティはロターリオに目を遣ったが、結局、肯いて返したのみだった。
書面の内容は、アロイジウスにとって〝青天霹靂〟以外の何ものでもなかった。
彼は、戦災孤児であった身を拾い育ててくれた養父母を殺され、またしても拠るべき家族を一夜にして失う憂き目となった。
妻に迎えると約束を交わした女性にも、黄泉へと先立たれた。
書面には、アニタは〝その身を辱められることなく瘴へと身を投じた〟とあった。
フルヴィオ・ガスコからすればそれはロルバッハの家の体面を
ペナーティにしてもロターリオにしてもアニタ・ヴェルガウソは知らぬ娘ではなかった。若い竜騎の間で誰が〝
その娘との婚約の報告をアロイジウスから聞いた日には、西方長官府附の竜騎の皆で祝福をしたのだ。
それから
「西方長官府は……いや、聖王朝は、盟約を果たすべく軍役にあった竜騎の砦を守らなかった。この事実は重いぞ……」
ロターリオのその言は暗い。ペナーティも暗澹とした顔で肯いた。
ことはアロイジウス個人の悲劇に止まるものではなかった。
同様の盟約で翼を並べている竜騎の数は決して少なくはない。他ならぬロターリオも、父親の代に〝男爵〟の位を授けられるまでは、やはり盟約で軍役に就く独立竜騎の家柄であった。
彼らが盟約に縛られるのは、家と一族との安泰を聖王朝が保障すればこそである。
「このことは、アロイジウスが〝浮舟の砦〟に詰めている間は伏せておきたい」
ロターリオはペナーティのその言に、ゆっくりと目線を向けた。
「…………」
ペナーティもその視線に応じ、低く言った。
「そのうえで、なるだけ早く軍役を解いてやろうと思っている」
探る様な目だった。
不快気な表情で言葉を飲んだロターリオは、そのペナーティの顔を射るよう皮肉に嗤って言った。
「貴様にその権限があるとは思わなかったがな」
ペナーティが動じないのを見て、溜息混じりに続ける。
「砦にいる間は
遣り切れん、と首を振った
「西方軍に留めて、それがヤツのためになるか? どの道
わずかに怒気を孕んだ言い様だった。
「──聖王朝は、一度ならず二度までも、ヤツから全てを奪ったのだ。俺とてそのような憂き目となれば、敵わぬまでも一矢を報いてやりたくなる……。そして、いまここで全てを知れば、ヤツはきっとそうするだろう。ルーベン・ミケリーノはここカルデラの南に来るのだからな」
黙って先を促すロターリオに、ペナーティは表情を消して言った。
「だが、いまそれは拙い。元老院の監察官に弓を向けさせられんだろう……。そうなれば、我らの手でアイツを捕らえねばならん。……せめて、若いアイツに時を与えてやりたい」
「…………」
ロターリオは、そんなペナーティに何かを納得をしたように小さく笑うと、頷いて言った。
「わかった。協力しよう」
このとき、ルーベン・ミケリーノの率いる〝マンドリーニ軍〟は、カルデラの南壁まであと8日という位置にまで進出している。
西方長官ポンペオ・タルデリの座乗船〈ハウルセク〉は、それに先着して〝浮舟の砦〟の在る船溜に停泊している。船上では連日連夜の宴が開かれていた。
ルージューの本軍はその状況を把握し、密かに支隊 (別動隊)をカルデラの
そしてアロイジウス・ロルバッハは、家族を襲った奇禍について何も知らされず、カルデラの南の砦に居る。
カルデラの南の雲の流れが速い…──。