西の辻風 5
文字数 3,794文字
その時になって、アニョロはクロエの魅力に気付いた。
〝物怖じをする〟という言葉が彼女の辞書に無いのは、必ずしも出自からくるものばかりではなさそうである。
彼女は人と話すとき、真っ直ぐ正面から目を覗き込んでくる。相手を射貫くような目だが、その分、明け透けであった。──〝話をする〟となれば
「…──まだ〝挨拶〟も済んでなかったのですがね」
レオ・マリア・マルティの姿を見失ったことをそう言って肩を竦めるようにしたアニョロに、クロエはさり気なくエスコートするよう促した。
アニョロはクロエの右側──アニョロは〝左利き〟だった…──を半歩ほど先んじて歩き始めたのだが、クロエはその腕に手を添えるでなく直ぐに隣に並んだ。
「叔父上さまが興味を示すということは、貴方も〝裏向き〟の仕事をしていますか?」
「商館の仕事に表も裏もないと存じますが?」
クロエの単刀直入な問いにアニョロは問いを返すことで韜晦に回った。が、元より彼女はそれを許しはしない。
「叔父上さまが貴方を高く評価しています。それで興味が湧いたのです」
「…………」 アニョロは物憂げに、思わず溜息ついた。「──…ルージューでは
「貴方の
辛辣なことを言ってクスと笑うクロエの顔は、年相応のものとなった。そう言えばアニタと同じ年の生まれであったことに、今さら気付かされる。
するとクロエは、
「それに私は、妹2人と違って〝マルティの血〟が流れていません」
何らを憚るふうでなくそう言った。
そういった風聞はアニョロも〝商館〟の報告書から知っていた──。
クロエの母バネッサ・レベカは若くして夫を亡くし、自身の大伯母にあたる遠縁のラモナ・マルティ・アブレウ──このときすでに辺境伯の側女であった──を頼ったのだが、ほどなく〝お手〟が付いて懐妊しライムンドの側女となる。そして生れたのがクロエであった。
ことの前後を考え合せたとき、恐らく前夫の子であろうことは推測された。実際、クロエの顔の相は母親似であったが、それ以上に、後に生れた妹エリシアほどライムンドの面影を見出すことは難しい。
だがライムンドは父として初の女子のクロエを可愛がったし、否定も肯定もなくマルティの姓を名乗らせている。
マルティ家の〝3人の娘〟の長姉はクロエであった。
「〝叔父上〟殿は、それほど私を買っていてくれてるのですか……」
どこまで踏み込んでいいものか、アニョロは慎重に訊いた。
「先程の〝口説き文句〟を聞けば考えを改めるかも知れませんけれど」
「そんなに酷かったですか?」
「少なくとも私には響きませんでした。──似合わぬ言葉で女に近付くのはどうかと思います」
「…………」
返す言葉のないアニョロは仕方なくクロエを質した。
「──…それで、〝叔父上〟殿はどちらに……」
「叔父上さまの今宵の行き先など知りません」
「…………」
いよいよ二の句の継げなくなったアニョロに、クロエは平然と顔を向けずに言ってのけた。
「言ったでしょう。〝興味が湧いた〟のです。──
「…………」
そのクロエの横顔に、アニョロは慎重な目線を向ける。クロエは続けた。
「考えてみれば、ここルージューは
「どうも……」
どうやら褒めてくれているらしいと感じたアニョロは、止せば良いのにお道化てみせた。
「馬鹿だと言いたいようですが」
「馬鹿なのですか?」
「いえ……」
途端に〝冷水〟を浴びせられ顔を顰めることとなる。
「〝裏向き〟の仕事をしていながら、必要なれば胆力を示すこともできる。なるほど、叔父上さまが見込むに足る御人なのかもしれません。それに…──」
クロエは完全に
「貴方には
ルージューの〝周到の人〟と
「それは、信用し過ぎてはいけない男、ということでしょうか」
「アーティ兄さまは信用のおける
これには気分を害したようであった……。
「……それで、〝周到の人〟に似た──」
「──…似ているとは言っていません」
この一言で次兄の仇は討ったとばかりに、次の言葉のクロエの
「立場がアティリオと同じなのでしょう?」
隣を歩く美しい横顔に横目でそう訊かれ、ようやく話の着地点に辿り着きつつあるのを感じたアニョロは、呼び水を向けてやる。
「
「アンダイエの商館を束ねる貴方に〝取り入ること〟ができれば、私は
言いたいことを言いたいように言った後は、殊勝なようすになってこちらを向いてみせるクロエに、アニョロは声を
「それはレオ・マリア殿の策略ですか?」
「まさか……! ルージュー一族は女子にそのようなことをさせようなどと考えない──」
クロエの声音がまた少し上がりかけた。それには構うことをせずに、アニョロは溜息の混じった台詞で遮った。
「──では、あくまでクロエさま個人の思い、というわけだ……。それほど此の地には居たくないですか……」
クロエはその物言いの中に、〝
クロエは血の繋がらぬ兄ジョスタンを好いていた。
辺境伯家の3姉妹の長姉として育ったクロエは、兄弟以外に同年代の男子と交わることなく育ったが、辺境伯家の
とくに次兄のジョスタンは(長兄が失明するまでは)奔放で、それが故かモノの本質を突くような言動の男であったことに魅かれたのかも知れない。〝魂の形〟が似ていると、そう思った。2人が2人とも明け透けであったし、彼らなりに、互いに対しても周囲に対しても誠実だった。
血の繋がりのないことは互いに承知していた。
幼い頃は、このまま〝大きくなってジョスタンのお嫁さんになる〟ものと思っていた。
成長し、周囲の〝モノの味方〟、分別というものが解かってくると、そんなことはあり得ないという〝現実〟を知ることとなる。
ジョスタンはルージューの棟梁となる身となった。そして自分はマルティ家の
「──…兄の婚礼を祝福できない自分が嫌なのです……」
クロエの声音が下がったものとなった。
「距離を置けば、想いが薄らぐとでも?」
アニョロの問い掛けに黙って頷く。その横顔の表情は、月明りの下で消されていた。
クロエは平板な声で訊き返してきた。
「商館との折衝役となれば、アンダイエに渡れましょう?」
アニョロは正直に答えた。
「そうお考えであれば、私に近付いたところでどうにもならない。商館長
言って、てっきり〝使えないヤツ〟くらいに思われ、邪険に扱われるだろうことを覚悟していたアニョロは、その後のクロエの態度の変化に正直戸惑うことになった。
「そうなのですか……!」
クロエはハッキリと動揺し、落胆の表情でアニョロを見上げる。それからようやく納得したふうに頷くと畏まって言った。
「そうですね。──…深く考えもせず、無理強いをしようとしていたようです……。昨夜の無礼な振舞いといい、浅学の小娘とお笑いください」
昨夜のことまでも、ずっと自分の非礼を気に病んでいたらしい。気位の高さに相応の、細やかな感情の動きも持ち合わせているようだった。
すっかり意気消沈したその姿は、アニタのそれと変わらなかった。
気が付けば、2人は二の丸の庭園を一周していた。
クロエは居館の玄関先で歩みを止めると、バツの悪そうな笑みでアニョロを見上げ、慇懃に一礼して見せた。
その表情がまるで……〝叱られることがわかっていながら、それをしてしまった子供の後悔のそれ〟だと、アニョロには思えた。
結局、アニョロは〝
彼女のために、一つ〝知恵〟を授けることにしたのだ。
そこに
「お待ちなさい」
一礼して逃げるよう館へと足を向けたクロエの背を、アニョロは呼び止めた。
クロエは立ち止ってアニョロを振り見遣る。
その視線を受けてアニョロは頷き、微笑むと指を夜空に向けて言った。
「──もう少しこのマヌケな洒落者に付き合ませんか……。月もほら……、キレイです」
最初の芝居がかった挨拶よりもずっと洗練された立居振舞だった。
この時、クロエはアニョロ・ウィレンテ・ヴェルガウソという男性を少し理解できた気がした。
──ルージューの城の中で
クロエもまた、もう少しこの男に目を向けても良いかな、と思ったのだった……。