禍つ風 2
文字数 5,523文字
数日を待たずして、〝アンダイエ復興の施策〟がランプニャーニ宮中伯の意を受けた政務官より元老院に提案された。
ランプニャーニから〝〈知識の間〉より技師を派遣する〟という具体案が提示されれば、それに対する抵抗は形ばかりのもので、工房の復興を優先し戦役の失敗と拙い戦後処理の責任については不問に付す、という言質と引き換えに提案は可決の見通しとなった。以後はその人選を巡る攻防となった。
元老院議員が招集され審議の趨勢が定まった日の翌日にこと──。
状況は元々非戦に傾いていたが、ランプニャーニ伯の言うアンダイエ復興策が具体的な形を伴って提案されれば、アンダイエの生産力の落ち込みを同じ西方のルージューの税収の増加で補おうというタルデリの目論見は一顧だにされなくなった。
そもそも新たに属領となったアンダイエの復興は西方長官の重要な職責であり、それに応えられないタルデリの失政は明らかなのである。頼みのシラクイラ権門──マンドリーニ公爵の閥──が〝後ろ盾〟に回らぬのであれば、元老院主導の復興策を受け入れねばならない。
その自明の流れに沿うように現実の方が鮮やかに進んで行く……。
ここまでの状況について、詳細を伝えるため西方に一度戻ることを考え始めていたアロイジウスだったが、いまになって不安が鎌首を
何か落とし穴が待っているのではないか……。大事な局面で足元をすくわれることになりはしないか……。
そんなふうに思っているアロイジウスの耳が、アニタの声を拾った。
「あ……、雨……」
声は背中からで、振り返ればアニタは立ち止って空を見上げていた。
釣られて天を向いたアロイジウスの頬に、ぽつりぽつりと水の
つい先程までの晴れ間に、いつの間にかかなりの量の雲が広がっていた。本降りとはならなくてもしばらくは雨雲の下を行きそうだ。
──!
と、思った
アロイジウスはアニタの側に駆けて寄るとその手を取り近くの大ドームの
パンテオンの円堂からアルタノンに開かれた柱廊玄関の屋根の下に駆け込むと、アニタが空模様を窺うふうにしながら隣のアロイジウスに言った。
「上手くいきそうでよかったわね」
「ああ」
アロイジウスは素直に肯いた。
「アレシオ卿を紹介してくれたエリベルトのお陰だな」
「そうね」
アニタも素直に肯いて、それからアロイジウスの顔を覗き込んで言った。
「でもそれだけじゃない……アレシオさまやランプニャーニ伯を動かしたのはアーロイだよ」
言われたアロイジウスの方は具合の悪そうな
「手筈は整えられていたから。あとは段取りだけだった」
謙遜してみせるアロイジウスのその顔に、アニタは曖昧に笑ってみせた。
なぜアロイジウスは〝自分のことだとこんなに奥ゆかしい〟のだろう、などとアニタは思うのだが、そんなアニタ自身のことをアティリオ・マルティが同じように思っていたことは知らない。
「アニタは……この後はどうするんだ?」
ふと思い付いた、というふうにアロイジウスが訊いてきた。
「オーヴィアに戻ってコレオーニの商館と話を詰めるわ。それほど時間はかからないと思うからアーロイを待たせたりしない」
そう答えると、アロイジウスが何だか困ったように問い直してくる。
「いや、そういうことじゃなくて。……カプレントへは戻るのか?」
「ええ。一緒にアンダイエに渡るよ。それからカプレントで待つ兄さまの許に戻る」
その後しばらく2人は黙ったまま、雨に包まれたアルタノンが、上空を流れゆく雲間からの陽光に輝くのを見遣ることになった。
「戻って、その……アティリオ・マルティに望まれたら、どうする?」
ようやくアロイジウスが訊いた。
最初、何を訊かれているのかわからないでいたアニタだったが、アロイジウスの言っていることの意味にようやく思い至ると、ここは無難に笑い飛ばすことにして言った。
「ああ……商館の中庭でのこと? だからあれは揶揄われたのよ。アティリオさまはよく私を揶揄うの」
ルージューやタルデリ伯のそれぞれにどんな思惑があったとしても、
アロイジウスは、ゆっくりとアニタに向いて口を開いた。
「いや、彼は揶揄ってなんてないと思う」
その思いの外真剣な声と表情のアロイジウスに、アニタも向かい合うように顔を向けた。
「直接〝弓を交えた〟からね……それは判る」
穏やかな口調のアロイジウスをアニタが見上げる。
「どうしてそんなことを言うの?」
少し躊躇ってからそう訊くと、アロイジウスはハッキリと言った。
「彼の想いには応えて欲しくない」
アニタは思わず息を飲んで、アロイジウスの縮れ毛の前髪の下の、澄んだ目を覗き込んだ。
「ね、それって──」
言われた言葉の真意を確かめたくて
「──最初の軍役が明けて、俺が君をロルバッハ砦に迎えるのに後1年掛かる。待っていて欲しい」
今度こそ本当に息を飲んでしまったアニタは、その後しばらく声が出なかった。が、次に言葉を声にしたときには、表情も
「アーロイから言ってくれるなんて思わなかった……」
少しだけ照れたふうに、言葉のないアロイジウスを見上げて小さく言う。
「てっきり、
「…………」
さすがにバツの悪い表情になったアロイジウスは、
「あぁの……こういうことは…──」
今さら言い訳じみたことが口の端に昇ってきたが、寸でのところで踏み止まることが出来た。
それから息を吸い、気持ちを落ち着かせてから腰の短剣を差し出す。
「コレを……ロルバッハ家に伝わる短剣で……
子爵家の令嬢への婚約の贈り物としては些か武張っていたろう……。だが、アンダイエの戦利奴隷から解放された身であるアロイジウスにとっては、自身の身分の証しとなった最初の持ち物であった。
それに…──贈られた方の心は、すでに子爵家の令嬢のものではなく竜騎の妻のものとなっていた。アニタは大切なものを扱うように両手でそれを受け取ると、柔らかい笑顔を向けてこう言ったのだった。
「この剣で、きっと私は〝我が夫アロイジウス〟の左の隣を守るわ」
そんな2人を、少し離れてずっと追っていた人影がある……。
その人影は2人がヴァノーネ宮にランプニャーニ伯を訪ねる前から付かず離れず、ずっと遠目に2人の監視を続けている。
翌日、アニタは先の約束の通りパウラ・アルテーアからアルソット大公家の屋敷に招待されることとなり、アロイジウスから結婚を望まれたことを伝える羽目になった。
パウラは
魔導の名門アルソット大公家の姫君が、直々にアニタのような官吏貴族の娘に祝いの品を下賜するということは異例のことである。
それから2日の後、翌日発の西方への船便を押さえたアロイジウスは、ランプニャーニ宮中伯の屋敷を再び訪ねた。突然に招かれたのである。
ランプニャーニからアンダイエの工房へ送り込む技師と監督官の人選を聞かされた後、アロイジウスがアニタとの婚約の意志を伝えた。
すると宮中伯は真面目な
恐縮して固辞しようとするアロイジウスをランプニャーニは煩そうに斥け、どうやら〝対で造られたもの〟らしい片方を恭しくアニタに差し出した。これには〝感極まった様子のアニタ〟に宮中伯は肯いてみせはしたが、後はもうこの件について一顧だにしなかった。
アロイジウスとアニタの、ランプニャーニ伯との〝思い出〟である。
シラクイラでのそういった人々との出会いを経て、アロイジウスはアニタを伴って西方への船路に就いた。
カプレントの商館でアニョロに此度の首尾を報告し、然る後、アンダイエの西方長官府のペナーティにも同様の報告をしなければならない。
しかし帰路は往路と違い〝逼迫している〟という感覚は薄かった。それでアロイジウスはカルデラまでの直行便ではなく、島嶼諸邦を経由する船便を選んだ。
往路でアニタに言った通り、途中のムランで飛空艇を手配してロルバッハ砦を訪ねることにしたのだ。
だが、アロイジウスとアニタが船上の人となり、シラクイラ西岸のオーヴィアを離れて5日目の夜、メツィオの政治情勢は一変したのだった…──。
ランプニャーニ宮中伯の屋敷に音もなく侵入した〝悪意〟が、すべての筋書きを変えてしまった……。
その夜、ランプニャーニは書斎に独り籠り、陽が明けてから元老院に提出する人事案に添える指示の文面に最後の推敲を加えていた。
執務机の上のランプの灯が揺れたと思ったランプニャーニが目線を上げると、部屋の白い壁に忽然と現れた影が揺れていた。
怪訝な目線で影の正体を
「……あ、貴女は…──」
ランプニャーニの声音は、極度の緊張を孕むものとなった。
「初めまして……でしたか? ランプニャーニ宮中伯」
鈴を振ったような声は、アルソット大公家のパウラ・アルテーアのものだった。
黒衣黒髪が背後に揺れる影に溶け込むようで、白い貌が浮き立っていた。
その表情は冷たく、紫色の瞳の色が怪しく輝いている。
ランプニャーニが震える声で質した。
「なぜ貴女が……」
パウラは応える前に微笑んで返した。
それでランプニャーニは死を覚悟した。
聖王朝に仕える宮中貴族の彼もまた知っていた。聖王家に連なるアルソット家の闇に関する風聞を…──。
彼らは聖王家の光に殉じ、その影として、ときに聖王家の意に沿わぬ者を魔導の技を用いて人知れず排除、つまり暗殺する役目を担っているという……。
すると自分は聖王家の勘気に触れる行いをした、というわけか。
ランプニャーニは、まさかこういった結末が待っていようとは思っていなかった自分に、少々呆れる思いだった。
現聖王プリーニオ・エマヌエーレは政治に関心がないものと思っていたが、まさかこのような形で
元老院を頭越しとする手段の行使にランプニャーニは戦慄と激しい憤りを覚えたが、しかし、何もすることが出来ないことも理解していた。
アルソット家の『魔』は、聖王朝二千年の〝闇の力〟の結晶である。
影の中から弱い灯りの中へと、少女は音もなく進み出てきた。ランプニャーニの表情を窺うと、可笑しそうに口を開き、
「伯爵さまぁ……貴方はたしかに〝死ななければならない〟けれど、それは貴方の思っているような理由のためじゃないの」
言って嗤って、すぅと目を細める。
(──? では聖王家の意で〝死を賜りに〟来たというわけではない?)
ランプニャーニは怪訝にパウラの目を見て質した。
「……では、どういう理由が」
パウラは、愉しそうに笑みを浮かべた。
「アロイジウス・ロルバッハ……あの〝素敵な竜騎さま〟の側に
「いったいどういう……」
一向に見えぬ話にランプニャーニは眉根を寄せる。と、いきなりパウラは、あっははっ、と嬌声じみた声になって応えた。
「さぁ? わたしの
ランプニャーニはこのとき〝息苦しさ〟を意識した。視界の中をパウラが踊るような軽やかさで寄ってきた。
「──貴方が死ぬことで〝
(そんな……っ そんなつまらぬことが理由か……)
意識が遠のいていく中で、ランプニャーニは
(──〝アロイジウス・ロルバッハの否定〟……たったそれだけの事に、この少女は戦をすら引き起こしても構わないと……)
ランプニャーニは
灼熱の中で混濁しつつある〝最後の意識〟が、視界の中でこちらを見下ろす邪気の無い──それでも冷たい目の──パウラ・アルテーアの嗤いを捉えた。
聖王家を強大な魔導の力で支える家柄は、ときに『魔』を生み出すという。
パウラ・アルテーアは
聖王朝二千年の歴史の影を担ってきた古い血筋が、ときおり生み出す真正の闇──。
執務机に〝魔除けの印の鈴〟があれば、事態は変わったろうか……。
そんなことを思ったのが、ランプニャーニの最後だった。