炸風 2
文字数 4,659文字
商館に戻ったアベルが奥の部屋に入ると、中にはもう主のベタニア・パルラモンとアティリオの他、姉のクロエとアニョロ・ヴェルガウソが顔を揃えていた。アニョロの手には、先程〝蝋燭売りの娘〟から受け取った紙片がある。
「──明後日、西方長官府に文武官が集められルーベン・ミケリーノの首席武官代行への指名がなされることになった。それに先立ってアロイジウスは西方軍に引き渡されるそうだ」
入るなりアティリオから状況を告げられた。
ルーベン・ミケリーノのその〝動き〟は想定の範疇であったが、それでも思っていたよりずっと早い。まさか〝代行〟という形を取ってまで強行するとは……。
「首席武官代行……ドメニコーニ殿が指名するのですか?」
先日の首席文官ドメニコーニとの密約が頭を過り、思わず問いが口を吐いて出た。苦虫を噛み殺したふうな
「仕方なかろうな。長官府はマンドリーニの私兵に囲まれたも同然。抵抗できまい」
「…………」
溜息を押し殺したアベルに、アティリオは続けた。。
「奴のことだ、首席武官代行として軍の綱紀を粛正するとアロイジウスを処断する腹だろう」
その側のアニョロが、読み終えた紙片をクロエに回しながら──状況を整理するためだろう…──アティリオの言葉を引き取った。
「加えてここに、〝既に
好き放題に遣られていることに、むしろ笑いの方が先に立つ、という態で言った。
「──タルデリが戦死した
言ってフッと嗤ったその声音には、微かな苛つきが混じっていた。
アベルは冷静に務めるべく訊いた。
「いつ宣言が出たのです?」
「
不可能事──辻褄の合わぬ話と思った。シラクイラからアンダイエまで半月 (14日)程掛かるはずだ……。
「……なんで遠いシラクイラからの報が2日やそこらで…──‼」
眉根を寄せかけたアベルは、思い当たる
──〝魔導の業〟か‼
アベルのその表情を読み取ったアティリオが硬い表情で言った。
「どうやら我らは〝魔女の
「ではボニファーツィオ卿にすぐにでも長官府に戻ってもらいましょう」
言葉の出なくなった男どもを横目にクロエが口を開いた。敢えて〝空気を読まない〟ことが、このような場合、自分に求められていることだと、クロエは承知している。
「ルーベン・ミケリーノの首席武官代行への指名を
そんな異母妹に、アティリオは慎重に応じた。
「──…道理が通ればそれでよいが……長官府に入った途端に拘束でもされれば、我らは〝後詰〟の駒の一切を失う」
考えられる最も乱暴で救いのない事態を口にした。
クロエが眉を顰めるように言う。
「そこまで無理をしますか?」
「する」
ルーベン・ミケリーノのことながら意外なほど達観した様子のアニョロが応じた。
「──
その表情を確かめるふうに、アティリオが静かに訊いた。
「西方軍の纏めの方はどうなっている?」
「各隊の〝信頼の置ける者〟は3割といったところかな」
「ギリギリだな」
「だが、必要にして十分な数だ」
集団の中の3割がひと時に同じ意思を示せば、それで集団の方向性が定まる。マンドリーニの私兵団に組み込まれるより先にこの3割が率先して動けば西方軍は束ねられる。
アニョロは幾つかの思案を纏めるふうに目線をいったん下ろした。「──
それから目線を上げると、クロエをチラと見遣ってから、アティリオを向いて肯いた。
それにアティリオも肯いて応じる。
「貴殿の
アニョロはアティリオの側に控えるベタニアに向いた。
「……商館長殿、急ぎドメニコーニ殿に書状を
それを皮切りにアニョロは自らの考えを口にし始めた。
「──…先ず、ペナーティとロターリオらはアンダイエに入れてしまう」
ほう、とアティリオが先を促すように目線を細める。ベタニアの用意したペンを取りつつアニョロは説明した。
「ルーベン・ミケリーノの首席武官代行の指名を、唯々諾々と受け容れてやることはない。……たまたま奴が指名された日にカルデラ南壁からの帰還兵が港に現れる……そんな光景の中では、奴の指名も〝如何にもどさくさ紛れ〟の印象を免れなくなるだろうし……衆目の中ではペナーティを拘束するようなこともできなくなる……」
アティリオの目の表情が少し変わった。
「では事前に煽っておくのも手ではあるな……」
アニョロは手元の紙片にペンを走らせる手を止めず続けた。
「……なるほど……市井に〝ルーベン・ミケリーノは首席武官の地位欲しさにタルデリを見殺しにした〟とでも流すか」
「流される噂が1つきりなら〝如何にも胡散臭い〟と思われる」
「それはそうだろうな……そちらは任せる……」
やはり手を止めず〝しれ〟とそういったアニョロにアティリオが側らに控えるベタニアを向くと、彼女は小さく頷いて返した。
アニョロは書き終えたペンを置くなり三つ折りにした紙片に封蝋を落とし、右手の小指の
「──急ぎ長官府に。明日の
アベルは得心した。カプレントの商館長代理は、兄と同じ世界に生きる人間なのだ、と。
この部屋に居ながらベタニアやダオーリオ、バンデーラといった者を使い、アンダイエを巡るこの戦いを始めたようだった。
〝
この2人をして、いまは〝名を持たぬ女〟の用意した舞台の上で踊るしかないという。
知らずアベルは、あの〝お忍びの少女〟が、そんな〝名を持たぬ女〟といったいどういう繋がりにあるのか、そんなことを考えていた。
陽も暮れかけて水場の杜──。
人気を求めて池の辺に足を向けたアベルは、そこにあの〝お忍びの少女〟の姿を捜した。
──『3時頃、〝水場の杜〟の池の辺で』と
果たして少女は、冬の残照に輝く池の水面を向き、ひとり佇んでいたのだった。
アベルの位置からはシルエットとして見て取れる彼女の出で立ちは〝走り使いの蝋燭売りの娘〟のままだった。
そのアベルの視線を感じたのか、少女がふと首を巡らせるようにアベルを向いた。
水面の輝きに目を細めたアベルに、人形のように白い少女の貌に微笑が浮かぶ。
アベルはそっと息を吐き、静かに近付いていった。
少女が〝止ん事無き生まれ〟であろうことは先刻承知である。その彼女が何故〝走り使いの娘〟の姿をし、あろうことかアロイジウスを捕えた上にそれを餌としてルーベン・ミケリーノの始末を我らにさせようという魔女の
「その〝出で立ち〟は
少女──アルテーアは、白い貌に浮かべた微笑を変えず、アベルの前でくるりと廻ってみせた。
それからアベルを向くと、少し恥ずかしそうな表情をして言った。
「あなたさまと別れた後、どうしてももう一度お会いしたくて、人を使ってあなたのことを捜させました」
どうにもこちらの言は届いていないようだ……、とアベルは内心で苦笑をする。
「コレオーニの商館に出入りしておられると聞き及び思案していましたところ、不思議なことにローブ姿の
アルテーアはここでいったん言葉を切って、アベルの目を真っ直ぐに見上げた。
「……どうしてもあなたさまに逢いたかったのです」
一番知りたかった処──魔女との関係──は〝おとぎ話の云い回し〟で済まされてしまった。
「…………」 何と応じたものか……。
アベルは仕方なく質した。「──…その〝出で立ち〟は?」
「〝ローブ姿の
「──わたくし、このような服を着るのは初めてでした。何だかわくわくしてしまって……」
そうしてこの時になって初めて、自分の装いを見てのアベルの表情に思い至ったふうに、不安気な表情をしてみせた。
「おかしかったでしょうか?」
「……おかしいですよ」
アベルは笑顔のままに応えた。
応えつつ、これは敵わないな……、と素直に思う。
アルテーアは〝自分の演じている役以上の姿〟を見せてくれるつもりは、毛頭ないようだ。
「──こんなに美しい蝋燭売りの娘は、まるで〝東の国々の物語〟の中で語られる人物が
アベルは言って、膝をついてアルテーアの手を取った。その白い、小さな造の手の甲に軽く接吻をする。
どうにも〝役者が違う〟ようだが、この幕はこれで通すしかないらしい……。
アベルはそのままアルテーアの手を引いて水辺を歩き出した。
西方軍竜騎テオドージオ・ダオーリオは夜に入ると〝信の置ける手下〟に覚悟を求めた。そして留守居の大隊を預かる自らの権限を用い、兵営の武器庫と竜舎の鍵を外しておく手筈を調えている。
ジェンナーロ・バンデーラは非番を装うと、西方軍と取り引きのある商家から小さな飛空艇を借用し夜のうちに市中を離れた。近くの
どれもこれも、アニョロ・ヴェルガウソから届いた指示である。
そのアニョロ・ヴェルガウソは、陽が残っているうちに〝カルデラの南壁で敗れた西方軍の残余〟を乗せた2隻の飛空船を秘密裡に訪ね、主将ボニファーツィオ・ペナーティと副将ロターリオ男爵に
そうして〝その日〟は、否が応でもマンドリーニ軍と西方軍との間を漂う不穏な空気の中、明けたのだった──。