微風 6
文字数 4,798文字
アロイジウスが書斎に消えた義兄エリベルト・マリアニを待つ間、アニタはユリアと裏庭でお茶を愉しんでいた。
つい数年前、シラクイラ北辺のヴェルガウソ館の中庭で毎日のようにこうして午後を過ごしていた2人は、その頃に戻ったかのように互いに屈託のない表情になれた。ユリアの手製の焼き菓子を前に語らう2人はまるで姉妹のようである。
ユリアは近況を交換し合って一通りアニタの言い分を聞いてやると、少し可笑しそうにそう言って彼女の顔を窺った。
「それでアニタさまは、そのマルティ家のクロエさまのこと、良く知ろうともせずに嫌っているのかしら?」
「それは!」
アニタの方は〝嫌っている〟という言葉に息を飲み、〝知ろうともせず〟という言葉に自分で驚いたふうになって、バツの悪い顔で言い淀む。
「……嫌ってる、というわけじゃ……ないです」
その
それから興味を持ったような口ぶりのままに、遠回りに諭して聞かせる。
「あのアニョロさまが迎えたいと想った方であれば、ただ美しいだけ、という方ではないでしょうね」
アニタは元来素直で頭も良い娘だったから、憧れの女性であるユリアのその言葉の意味は十分に感じ取っていたが、この日は少しばかり抵抗した。
「いつも澄ました貌でいますから、わかりません」
「辺境伯家のご令嬢ですもの……。公式の場で本当の
「私は子爵家の娘ですからわかりません」
感情が先に立つと引っ込みがつかなくなるのはアロイジウスにそっくりである。
似過ぎた男女は結ばれないというが、ユリアには、アニタと弟に限ってはそうとは思えなかった。
何と言おうか……2人は常に互いの
「ね、アニタさま──」
振り上げた矛を収めるタイミングを探ろうとチロチロと目線を遣ってくるアニタに、ユリアはちょっと意地悪に訊いてみた。
「アニタさまは、アニョロさまとアーロイの、いったいどちらの
「それはいずれはアーロイの……」
すらりとそこまで口に出来た言葉を、アニタは慌てて飲み込んだ。みるみる顔が朱くなっていく。
ユリアは肯くと、微笑んで言った。
「いまアニタさまはアーロイの側に居るわ。そして
「…………」
上目になって探るようにこちらを向いたアニタに、ユリアは言ってやった。
「お兄さまと〝そのお兄様が望まれた方〟を祝福して差し上げては如何かしら?」
ユリアにしてみれば、このようなことに煩わされているアニタはどうにも彼女らしくないように思えたからだ。
やがてアニタは、おずおずと訊き返してきた。
「ユリアさまならば……私を、祝福してくださいますか?」
ユリアはすぐに破顔した。
「もちろん。アニタさまのような方にあの弟の左隣を守って(※)欲しいと、
それでアニタは安心したように一息を吐くと、憑き物を振り払うかのようにして頭を振った。それから屈託のない笑みになってユリアを見返すと、そっと頷いた。
(※グウィディルンの世界では〝魔から心の臓のある左隣を守る〟のは妻の役目とされる)
その後2日をエスティクイラのマリアニ邸で過ごしたアロイジウスは、その間に造船所と東方軍の統監府とを行き来している。戦に備えての兵船確保の段取りと船腹の見積もりを詰めるためで、ペナーティの命の
尤も、具体的な動員令が発動されたわけでもなく、中央から西方に備えよとの内示があったわけでもない中では話は緊張感を欠き、只々仮定の話を積み上げては紙の上で〝見込みの数〟を確かめるだけである。恐らくこの数字は額面通りには発揮されないだろうことは、最下級の武官であるアロイジウスにすら想像できた。
アロイジウスは、そんな懸念を注釈として書き添えることもなく上役のペナーティへの報告書を仕上げると、それを東方軍統監府より軍の定期便に預けた。
そして自らはエリベルトの用意してくれたアレシオ・リーノ宛ての手紙を携え、エスティクイラの商船ギルドの運用する飛空船でシラクイラの都メツィオへと取って返した。軍の船を避けたのは、そろそろタルデリの耳にも〝ペナーティ-アロイジウスの線〟の動きが入る頃だろうからだ。それに、今後の方針が非戦派のランプニャーニ宮中伯を動かすことに決まれば、先を急ぐ必要もなかった。
此度の旅路も側らにはアニタが居た。
最初、アロイジウスはアニタをマリアニ家に託して行こうと考えていたのだが、夜のうちにアニタから素直な心情のままに『一緒に行きたい』と言い募られると、こちらも素直に受け入れていた。
アニタにしてみれば、ユリアに言われたこと──〝アロイジウスの左隣を守る〟ことを果たしたいとの想いからで、そんな彼女の表情と姉ユリアの口添えに、アロイジウスも、少なくともこの旅は一緒にしてもいいかも知れないと、そう思った。
メツィオに到着した日、アロイジウスとアニタは子爵家の令嬢というアニタの〝顔〟でヴェルガウソ家の常宿の3間続きの部屋に入った。ここで身支度を整えアレシオ・リーノの屋敷を訪ねることにする。
小さめながら上等の調度で調えられた部屋にまるで我が家のように寛いだ様子のアニタは、気後れ気味でいるアロイジウスに得意気になって言った。
「私を連れてきて良かったでしょう?」
「まぁ……軍の経費じゃ、こんな部屋にはとても泊まれないね」
アロイジウスは〝参りました〟とばかりに笑った。
翌日──。
一応持ってきていた礼装軍衣に着替えたアロイジウスは、同じく礼装軍衣に男装したアニタを従えて、メツィオの西の
メツィオの市中に面しているために『館』ということになってはいるが、その体裁は砦と言えるもので、門の構えなどは堂々たるものだった。さすがに武門の名流である。
その武門の御曹司であるアレシオ・リーノは、この年、第2大隊〝プレシナ〟の次席指揮官に昇任しており、大隊の営地を離れているときはこの館に起居していた。
アロイジウスは側らのアニタに、呆れたような声で訊いた。
「凄いな……堂々たるものだ」
そんなアロイジウスに、アニタも内心の気後れを隠して言う。
「だから言ったでしょ。礼装にしないと居場所がなくなる、って」
そこに取り次ぎの衛士が戻ってきた。
「裏手の杜からお回り頂くことになります」
「裏手の杜とは?」
「若君はワイバーンに午前の調練を欠かしませぬが、アロイジウス殿の名を伝えましたところ、調練場に回って頂くよう言付かりました。私が案内いたします」
「なるほど……」
アロイジウスはアニタと顔を見合わすと、先に立って歩き出した衛士について行く。
大公家の館の敷地は呆れるほどの広さだった。杜として整備された内部には小振りながらも翼獣の調練場すら持ち、明らかに砦であることが見て取れる。
尤も、
そんな杜の中をしばし歩き、調練場として拓かれた場所まで辿り着く。
取次ぎを願った衛士が少し大ぶりのガゼボの前で立ち止まった。柱だけでなく壁まであるところを見ると、有事の際の竜騎兵の指揮所といった所なのだろう。
衛士は一礼し、アロイジウスに中に入るよう促した。
アロイジウスは聖王朝軍の礼式に則り、扉をノックし名乗りを上げて待った。
「西方軍 長官府附き武官 竜騎アロイジウス・ロルバッハ」
「入れ」
ほどなく入室の許可が下りた。
中に入ると、
アロイジウスはアレシオの顔を知りはしなかったが、他に人影がないことからも彼がアレシオ・リーノであろうことはどうやら間違いない。それにしても、身に纏っていたものがまったくの戦地の出で立ちというのには恐れ入った。
アロイジウスは若者の前に進み出て一礼をした。
アニタの方はアレシオの顔を見知っており、一瞬の躊躇の末に結局は礼装軍服でカーテシーをする破目になった。
アレシオが軽く腕を上げて楽にするように示すと言った。
「卿がエリベルトの義弟アロイジウス・ロルバッハか…──父君は達者であられるか?」
「は…──もはや失明は避けられませんが、それ以外は至って壮健です……」
アロイジウスは畏まって応えつつも訊いてしまっていた。
「──あの……
「父君はプレシナ一門麾下の翼隊 (※)にあって能く働いてくれた御人だ。目のことが無ければ我が第2大隊の幕僚に迎えていた。それに卿の姉君とエリベルト・マリアニの婚礼に立ち会ったのは私の父なのだぞ。もはや他人とは言えまい」 (※補助部隊)
答えは明瞭で堂に入ったものだった。そのアレシオの言葉で、アロイジウスは改めて養父を誇らしく感じている。
「本題に入ろう」
時間を無駄にせぬアレシオに、アロイジウスは懐より手紙を取り出すとそれを手渡した。
一通り書面に目を通し終えると、アレシオは側らに立ったアロイジウスを見上げ、よく通る生来の指揮官の声質で
「卿はルージューの地の内側とカルデラ南壁の備えを直にその目で見ているな」
「は」
「率直に言ってシラクイラの手にすら余る敵か?」
アレシオは〝西方軍の手に余るか?〟とは訊かず、一足飛びにそう訊いた。
アロイジウスは正直に答えた。
「常備戦力を分遣する程度の戦い方ではまず勝ち目はないと存じます」
「負けると?」
「負けるとは申しません。……ですが、戦いは長引き、双方、
「その根拠は?」
アレシオが重ねて質すと、アロイジウスはペナーティら西方長官府附きの武官ら同僚との分析を基に、侵攻制空軍たる聖王朝軍の課題を述べた。
「──…カルデラ外輪の要所は要塞化されております。飛空船と翼獣からなる遠征軍は空中会戦ならいざ知らず、拠点防備に徹する正規軍を殲滅するのに適しておりません。その上カルデラの内側は広く、ルージュー軍は決戦を避け持久策を採れます。我が軍は兵站も確立できておらず、敵地に引きずり込まれれば身動きが取れなくなりましょう。分散すれば各個に撃破されます」
アロイジウスの澱みのない言葉に、アレシオ・リーノは笑みを浮かべる。
「──だが、それでも〝負けぬ〟と?」
「ルージュー軍は外征軍の態を取っておりません。どれほど聖王朝の軍を撥ね返そうとシラクイラを長駆攻略することが出来ぬ以上、ルージューには最終的な勝利の道がありません。翻って聖王朝は、負けぬ限り何度でも攻めることが出来ましょう」
応えつつ、
(試されているな……)
と、アロイジウスは思う。
そんなアロイジウスに、アレシオ・リーノは冷徹な声で応じた。
「卿の言う通りだ。我ら聖王朝軍は勝利を得るまでカルデラの地に征西することになる。結局、ルージューが亡びることに変わりはないわけだ」
そして興味を失ったような声音になって、
「……なら卿らが〝今を凌ぎたい〟理由が解らない。確かにいま開戦すれば愚にもつかない戦となろうが、出兵するのはタルデリらの門閥の私兵だ。打ち負かされたところで聖王家にとって何らの打撃にならない。むしろルージューと幾らかでも痛み分けとなってくれれば後の布石ともなる──聖王朝の軍人ならそう考えて然るべきだが……。
ヴェルガウソ子爵への義理立てか、西方軍として戦って死ぬのを臆してか?」
そう、訊いてきた。