突風 2
文字数 4,322文字
シラクイラの西から島嶼諸邦のムランを経てその先、〝西のカルデラ〟の南側へと延びる航路の上を飛ぶ飛空船があった。
商船としては行き脚の速いその船は、コレオーニの商館の雇う船である。
船の進路の左手の先には船団が見えている。距離があるので
〝マンドリーニ軍〟の船は13日前に島嶼諸邦の各港を発つと、その後1日を掛けて船団を組み、針路を南西へと向けた。
それを遠目に追ってきたその船は、マンドリーニの船団の船脚がカルデラに近付くに従い緩々と遅くなっていくに従い自船の速度も緩めていたのだったが、いよいよそれも難しくなって船団の右手を追い抜くこととなったのだった。
船団は〝風を掴み〟に進路を変えることをせず、針路をそのままに
「ずいぶんと〝やる気の感じられない〟船団の進め方ですな」 遠くの船団の影を見遣りながら、副長が船長に訊くとはなしに言った。「それとも……余程に練度が低いのでしょうか?」
それに、困惑した表情の船長が慎重に応じる。
「さすがにそれはあるまいが……、しかしどうだろうな」
「では、これは
「…………」
副長が重ねたその問いに、船長はもうそれ以上は応えなかった。
それで副長は実務的な表情になってその話題を切上げ、あらたまった口調になる。
「〝ハト〟を飛ばしますか?」
コレオーニの船はルージュー有事の際には手下に加わり戦に参じる約定を交わしていた。
この船もまた、島嶼諸邦に入ったマンドリーニ軍を追跡し、その動向を探っている。
副長は、マンドリーニの船団の船脚がカルデラの南壁を前に鈍ったのを〝伝書バトを飛ばしてルージューに伝えるか〟どうかを質したのだ。
「うむ……」 船長は肯いた。「──が、いま少しマンドリーニの船団から離れてからにしようか」
それを船長は了としたが、ハトを飛ばすのは船団の姿が見えなくなってから、とした。
島嶼諸邦でのマンドリーニ軍の振舞いから
副長は頷いて、船脚を上げるため風を掴むべく船員たちに指示を飛ばし始めた。
一方、そんなコレオーニの船を右手に見て、ルーベン・ミケリーノの座乗する〈ミアガルマ〉は船団の中央を走っている。
風はこの季節にあって珍しくはない〝向かい風〟で、三角帆が何とか風を捉えられるものの効率の悪い風の受け方を強いるルーベン・ミケリーノのこの指示には、船上の誰もが苛ついている。が、当のルーベンは一向に気にするふうでなかった。
そんなルーベンは〈ミアガルマ〉の船首楼の上で、父マンドリーニ公爵が一門より付けてくれた将らを前に、つまらなそうな表情で酒の杯を傾けている。
「
そう詰め寄る幕僚らを、ルーベンはまともに取り合わない。
「どうしたもこうしたも、我が船団は〝練度不足〟で向かい風を進めぬ」
取り合う気もない、という言い様である。
「…………」
居合わせた幕僚・諸将が皆息を飲む中、ルーベンはそれを無視した。
やがて年嵩の幕僚が仕方なしとばかりに口を開いた。
「しかし
「──と申して、風がコレではな……」
ルーベンはやんわりと、それも遮ってみせた。
さすがにこれには、別の幕僚が噛みつくように口を開いた。
「確かに船団としてのビーティング(※)は正規軍ほどの練度を望めませぬが……それぞれの船が風上に進むのに何ら不足はありま──」
(※風上に船を進行させるためジグザグのコースをとる手法)
「──それはダメだ」
〝船団を解き各船がカルデラの南を目指すべき〟との進言を遮ったルーベン・ミケリーノの語調は鋭いものだった。だが将らもそれで納得はしない。年若い1人が勢い込むように訊き返してきた。
「何故ですっ」
ルーベンは面倒そうに息を吐いた。
「ルージューはカルデラの南に罠を張って待ち受けているのだぞ……。船団を解いて個々に〝のこのこ〟と
言って……そんなことも解らんのか、と口許だけで嗤ってみせる。
諸将は表情を強張らせた。
目線を交わし合った将らの中で、再び年嵩の幕僚が代表して訊いた。
「いったい何を根拠にそのような……」
ルーベンはいよいよ面倒そうに酒の杯を
「根拠はあるが目に見える証拠などはない」
杯を干すと息を吐いた。
「強いて言えば……〝俺ならばそうする〟だろうからだ」
その言には座の半分は呆れたが、半分は表情を改め押し黙ることとなった。
「……では、ルージューは既に開戦の腹を括った、と?」
ルーベンは嗤って返した。
この状況でルージューが聖王朝との関係修復を望んだとてこれまでのような面従腹背はできまい。曲がりなりにもカルデラの南壁を、西方長官府が直接に監視する姿勢を示したのだ。それは〝これまでのルージューの不義理〟を赦していない、とのシラクイラ門閥のメッセージである。
実際にはルーベン・ミケリーノによる脚色した演出であるが、これが聖王朝の本音である。
シラクイラがこれまでの不義理を追求し、ルージューの側に大幅な譲歩を迫るのは自明のことである。そうなればこれまで心血を注いで築いてきた〝備え〟の大半を、ルージューは失うことになる。
両雄は並び立たない。いや、既に聖王朝は他の全てを呑み込まねば成り立たないというところまできており、次の標的は〝西のカルデラ〟の雄、ルージューであった。
その本音を垣間見た
こうして座して待つ間にも聖王朝は兵船を蓄えており、数年の後には確実に押し寄せてくるのだ。元々が、落ちる寸前の〝熟した果実〟と言ってよい。
「ルージューとは遅かれ早かれ雌雄を決せねばならぬ。彼らがこれまでカルデラ外輪でしてきたことを考えれば、我らの武威に只黙って呑まれることを受け容れるはずなかろう? そう考えたとき、いまは好機に思えないか?」
座の大半がその言には頷きはしたが、それでも慎重な者はいる。
「なるほど、まるきり〝故の無きこと〟でないことは解ります…──。ですが、それがルージュー挙兵の根拠とは……」
ルーベンは、この男にしては辛抱強く頷いた。
実はこのとき、ルーベン・ミケリーノはカルデラの南壁の地でルージュー軍がそうなるよう仕向ける、ということを秘密裡に行わせている。
やはり
が、そんなことはおくびにも出さずにルーベンは言った。
「だからこうして様子を見る、と言っている」
これで座は一先ず収まったふうであったが、幕僚の1人が言った。
「しかしそれでは、カルデラの南に入ったタルデリ殿はどうなります?」
ルーベン・ミケリーノは酒の杯を口元に運んで言った。
「タルデリはもはや救うことはできぬ」
それが〝断言〟であったことに、この場の何人が気付いたろう。
「ならばせめて、聖王朝の大義のために殉じてもらう」
ルーベン・ミケリーノの口許に、酷薄そうな微笑が浮かんだ。
同じ頃──。
カルデラ外輪の西の峰を越え、秘かにルージューの大船がカルデラの外の空に進出していた。
1隻ではない……4隻もの大船が1群を構成していた。
それぞれが一際に巨大で、不格好な飛空船であった。全長は25パーチ(≒75メートル)に達しようか…──シラクイラにすらこのような巨船は見当たらない。これだけの巨躯を浮かすのに、いったいどれだけの飛行石が必要となろうか。
だがこの船は、飛行石の力だけで飛んでいるわけではなかった。〝西のカルデラの地〟で見られる水素飛空船……だからこれほどの巨船を浮かせられたのである。
なるほど、この巨船の不格好な外観の内側の大部分が、水素の詰まった気嚢であることを知れば、飛空船というものを知る人は納得をする。水素の浮力を
むろん、少ない量の水素ではそれ程の浮力──積載量の増加を見込むことはできない。水素を詰める気嚢は大きければ大きい程、それに比して浮力が積み上がって行く。
この25パーチという大きさは、20頭の
そう、この聖王朝すら保有していない巨船は、ルージューの誇るグリフォン・ライダーを空中で集中運用するための専用船、云わば〝翼獣母船〟と呼ぶべき船なのであった。
グリフォンは聖王朝の使役するワイバーンと比べ長い距離を飛ぶことができない。その不利を補うため戦場までを飛空船で運ぼうにも問題があった。
グリフォンの、ワイバーン以上の巨躯が
大船の数を揃えられない(〝建て前〟としても1隻と制限されている)ルージューには、このような母船から翼獣を使うことなど、これまでは出来ないことであった。
それを〝果断の人〟ジョスタン・エウラリオは覆すことを企図した。カルデラの地で発達した〝水素飛空船〟とすることで解決を図ったのである。
無論、火気に気を使わねばならず、積載量の割に船体が大きくなり、低速で鈍重となることが判っている水素飛空船が、最前線に配置できるようなものではないことは判っている。
だがジョスタンには〝
そのジョスタンに直卒され、4隻の巨船が、計80騎ものグリフォン・ライダーを積んでカルデラの南壁へと向かっている。
数日のうちにカルデラの南に入ろうというマンドリーニ軍の背後を断つ動きである。
それはルーベン・ミケリーノの読みの通りの動きと言えたが、
西のカルデラの地に、さらに不穏な空気が渦を巻き始めている…──。