嵐気 4
文字数 4,498文字
アベル・サムエル・マルティは、興味深げな目線を街の
浮き島であるアンダイエは、帝国古王朝期の文化を引き継いだ街の典型と聞いていた。
実際に観てみれば、確かに
例えば街の大きな辻々に設えられている時計一つ取っても、アベルの生きるカルデラの地では〝日時計〟が一般的であったが、此処アンダイエでは、浮き島の街に多く見られる『水石』を用いた〝水時計〟だった。
アベルは得心した。なるほど、日々生活している〝大地〟そのものが空に漂っている浮き島では、方位が定まらねば時を計れぬ〝日時計〟は役に立たない。諸々高く付くのだな、などと思いつつ、曇りや雨の日でも時が判るところについては、こちらの方が優れていると感じ入った。
ちなみに『水石』とは、大気中の水の元素を液化して取り出すことのできる魔力を込められた石──魔晶石──のことをいい、水源の確保の難しい浮き島という
其れはさて置き──。
潜入して4日が経ったこの日も、
弟がしれっとそれを願い出た時の気負う処の無い涼し気な言い様に、クロエは何をどう説いて諭せばこの無茶を正すことができるのかと呆れるふうな表情をしたのだが、直後に
ルージューの
そう言った異母兄はクロエにきつい目の表情を向けられ慌てて付け加えた。コレオーニの商館は此の地で最も安全な場所の一つだが、いま我ら全員で訊ねるのは得策ではない。ここはルージューの一族の中で一番〝顔を知られていない〟アベルを遣るのが一番だろう、と。
まだ得心のいかぬ
そうして、生れて初めて見る〝カルデラの外〟の世界の香りを愉しんでいる。
アベルがその視線に気付いたのは、教えられていたコレオーニ商館への道を外れて、街区の中央に開かれた市民の憩いの場となっている水場の杜の方へと遠回りをしていたときだった。水辺の景色がカルデラの地に似ていると、自然と足が向いたのだ。
視線は獣のものだった。
声もなく、只じっと本能的な〝恐怖〟に瞳を凝らすように固まっていたのは、池の
冬の朝の冷たい空気の中に〝影〟が立ち竦んでいるように見えた。──それが黒衣黒髪の人のものであることに気付くのは後になってからである。
グリフォンは常にない緊張に身体を強張らせているが、切っ掛けがあれば眼前の人影に鋭い爪を突き立てるだろう。グリフォンが恐慌に陥る寸前であるのをルージューで育つ者は一目で理解した。
咄嗟に身体が動いていた。お守り代わりに常に首に下げている〝鷲笛〟を口に当てる。始めから強くは吹かない。静かに音を風に乗せ、少しずつ音──…人の耳に聴こえることはないが──を厚く膨らませていく。何とか落ち着かせようと笛の音を操る。
グリフォンが笛の音を捉えた。周囲を警戒するように鷲の首を巡らせている。だが状況は好転しそうにあかった。未だ〝昂った〟気が頂点に達してはいなかったが、直にそうなるように思えた。
どうする? アベルは自問しつつもグリフォンの傍らに立ち竦む人影へと歩を進めた。何とかグリフォンを刺激することなく人影の横に来たとき、初めてそれが黒衣黒髪の少女であることに気付いた。
少女は傍らに立ったアベルに顔を向ける。紫色の瞳が、訝し気にアベルを見た。アベルは意を決した。
手近の木の裏に飛び込んだ時、グリフォンは大きく翼を打って飛び上がろうとしており、首に括られた鎖が大きな音を立てていた。アベルは木の陰で息を整えると、鷲笛に息を吹き込んでグリフォンを宥めに掛かる。しばらく吹き続けていると、やがてグリフォンは落ち着きを取り戻し翼を畳んだ。
アベルは一息吐くと、側らから覗き込むふうに様子を窺っている少女に向けて笑顔になって言った。
「怖くはなかった?」
少女は無感動な貌で小さく頷いて見せた。アベルはすっくと立ち上がって続けた。
「翼獣……とりわけグリフォンは君が思っているよりもずっと膂力があって危険な生き物なんだ。1人で不用意に近付いちゃいけないよ」
云って、土草の上に手と膝を突いている少女に手を差し出す。少女はその手を取って立ち上がると云った。
「まだお名前を訊いておりませんわ」 鈴を振るような声だった。
アベルは慌てて応えた。
「アベルです。──アベル・サムエル……」 マルティの名は出せないことに気付く。それで母方の家名を出した。「…──シメネスと申します」
「では、アベルさま。先程のこと、ありがたく存じます。はじめてお目にかかりますわね。わたくしのことはアルテーアとお呼びくださいまし」
その声には少し〝険〟があった。アベルの眉根が曇る。先の
それに、家名を伏せられた。ということは〝お忍び〟ということか。それはアベルもそうだったのでこれ以上は踏み込まない事にする。礼儀だ。が、少女──アルテーア──の物言いと物腰から、
ルージュー一族の中で生まれ育ったアベルとしても〝気位の高い女性〟は常に身近に居り、寧ろ見慣れていた。またそういった女性の扱いに慣れてもいたのだが、いまは敵中に潜む身である。時間も惜しかった。だから彼女の自尊心を慰めることに付き合うことはしなかった。
「ひょっとして、気に障る物言いに聞こえたかも知れないね? だから謝る。──それじゃ先を急いでるので、これで……」 言って少女に背を向ける。
それからそれが
一方アルテーアは、機嫌を損ねたことに気付きながらそこに
彼くらいの若年の貴族の子らは、アルソットの家名を出す以前に、彼女の〝表側〟の立居と振舞いに遜ってみせる者が大半である。このように〝彼女の無礼〟を軽く流し、
「もし……お待ちを」
アルテーアは、アベルの背に声を掛けていた。
振り向いたアベルにアルテーアは訊いた。
「先程の笛……笛ですね? 西方の殿方は皆さま嗜んでおられるのでしょうか?」
この少女なりに屈託なく訊いているのだろう。紫色の目の中に興味を抱いたふうな光があるのに、14歳のアベルは少しドギマギさせられた。
「アロイジウスが捕まったぞ」
部屋に入ってくるなり、そう男が声を上げた。竜騎の胸甲に高級士官を示す緑色のマントを着けている。
部屋に居たアニョロ・ヴェルガウソとアティリオ・マルティは互いの顔を見合せ、それから声の主──西方軍竜騎テオドージオ・ダオーリオの顔を見返した。
西方軍の営舎の一室。そこは首席武官ボニファーツィオ・ペナーティの腹心の一人であるダオーリオが提供した部屋だった。室内には彼ら3人の他アティリオ・マルティの従者──…に扮したクロエ・マルティ──が居るだけだったが、ダオーリオは
そのダオーリオは此度の観兵式ではペナーティより留守居役を頼まれ、長官府附きの竜騎大隊の約半数を束ねアンダイエの守りに就いていた。当年31歳。派手な所の無い堅実一途な男である。在所の竜舎にアニョロ・ヴェルガウソとアロイジウス・ロルバッハが訪ねたときも、ペナーティの書状を読み終えるや、怪訝な表情一つ浮かべるでなく一行を迎え入れてくれたのだった。
その際の遣り取りはこうである。
──マンドリーニに嵌められたと?
──はい。
──シラクイラの納得していることではないのか?
──確かにこのまま推移すれば、何事もなく〝納得したことになる〟でしょう。
ですがルーベン・ミケリーノを除けば、潮目は変わります。
我らは
──聖王朝にとってこの潮目を変えることに益はあるか?
──変えても変えなくても、長い目で見れば益は変わらないでしょう。
が、係る損に限って言えば、
それに……このままでは長官府と西方軍の面目が立ちません。
それでもうダオーリオは、後は何も言わなかった。
営舎の一室をルージュー・マルティの御曹司とその従者に提供し、自らはペナーティの指示に従って
彼もまた地方出身の竜騎であり、マンドリーニのような
……それが2日前である。
そのダオーリオが今日になって部屋を訪ねて来て、部屋に入るなりそう言ったのである。
アニョロとアティリオが先を促す様に黙していると、当のダオーリオが口を開くより先にクロエが同行の2人に質していた。
「……それで、今回の
「うそ……」
それでクロエも、これが〝予定されたことではない〟ことを理解した。