風の伝え 3
文字数 5,869文字
話は少し前後する。
遡ることジョスタン・エウラリオがアンダイエの商館に入った日の2日後……、カルデラの西、マールロキンの地──。
カルデラ内輪の西峰を挟み隣接する地の
この日、ルージューの地より呼び戻されたエドゥアルド・ルフィノは、母である
「理由をお聞かせください、母上」
エドゥアルドの抑えた声に訊かれ、執務机のクストディアは我が子の目を見た。
子供の頃と変わらぬ〝清いもの〟が、まだ残っているように感じ、それを母は愛おしいと感じた。──それはクストディアが失って久しいものだった。
そういう自覚が
クストディアは母としてではなく──亡き夫から引き継いだ…──方伯として口を開いた。
「マールロキンは
エドゥアルドは引き下がらなかった。
「何を今更……それは得心できぬ話。南壁の砦を焼いたとき、我らはジョスタン・エウラリオの脇を固めたのですよ!」
〝カルデラ南壁の戦い〟でルージュー軍の一翼を担ったことはエドゥアルドの独断ではなくクストディアの承諾を得てのことである。
そこには大きな信義がある。だからこそルージュー・マルティの〝果断の人〟ジョスタンは自分と〝マールロキン〟を信頼し、虎の子の翼獣母船群の誘導指示を任せてくれたのだ。
だが母方伯はにべもなく言った。
「如何にも〝浅はか〟でした」
エドゥアルドは言葉を失った。
「あ……浅はかとは……」
今更あの不退転の決意を〝無かったもの〟には出来まいに!
そう怒りに震えるエドゥアルドの耳が、更に〝破廉恥〟と奥歯を噛むようなことを平然と言ってのけるクストディアの声を聞いた。
「──…ですがものは考えよう。これでマルティの目を
握った拳の掌に爪の先が喰い込む。
深い息を吐いた時に、思いが定まった。
一応、最後に訊く。
「では、どうあってもマールロキンはルージューと共には起たぬ、と……」
「そう申しましたよ」
母の言葉に惑いはない。マールロキンの〝黒狐〟が自分の母なのだと、改めて悟らされる。
その上でエドゥアルドは、自分の思いを口にした。
「ならば〝マールロキンの軍配〟はお返しします。……ですが私は、個人〝エドゥアルド〟としてジョスタン・エウラリオの下に参じます」
途端に鋭い声が返った。
「それは
方伯としての云い回しながら、声の響きには感情のうねりがあった。
「私は……」
エドゥアルドも感情を抑えなかった。
「ルージューに〝命を預ける〟と誓約したのです! これは男の信義です! 武名に
言い放つや、執務机の前から踵を返す。
「まだわからぬか……」
クストディアは唇を噛んだ。それから執務机から身を起たせ叫んだ。
「誰かある!」
途端に続き部屋の扉が開き、クストディアの衛士が4、5人ばかり飛び出してきた。
「エドゥアルドが乱心じゃ。西の搭へ引き立てよ!」
エドゥアルドは飛び出てきた衛士らの顔を見たとき、母の策略に観念をせざるを得ないと溜息を吐くことになっている。
エドゥアルドの周囲を囲む衛士の一人が
「エドゥアルドさま……方伯様のご命令です、剣をお渡しください」
その声は上擦り、形ばかり向けられた小剣は床に向いて下がっている。直接向けるには恐れ多いと思っているのだろう。
衛士は皆、うら若い乙女だった。 ──クストディアは自らが女であることもあって、少なくない数の若い女を、侍女を兼ねた衛士に用いていた。
「…………」
剣を抜いて押し通せば、わけなく切り抜けられる。だがそれをすれば彼女らも衛士…──敵わぬまでも全力で掛かってくるだろう……。
嫁入り前の乙女らに怪我をさせることは躊躇われた。それにどの道、ここを切り抜けたところで追手が掛かる……。
エドゥアルドは一先ず従順に応じることにし、腰の剣を外して衛士の1人に手渡した。
そうして胸の中で、盟友に詫びる。
──許せジョスタン……。俺は、どうやら共に起ってやることは叶わぬようだ……。
衛士の乙女らに囲まれて執務室を出る息子の暗い視線に、クストディアは耐えた。
部屋を出るその背中を見送って、誰も居なくなった執務室の中心に残った母は、一人思う。
──エドゥアルド……お前はこの母を軽蔑するだろうが、それは構わない。
大切なのはこのマールロキンの安泰……。
男どものいう信義とやらが〝聖王朝二千年の闇の力〟の前に何をしてくれる?
──〝清さを求める〟お前の目には、如何にもこの道は穢れて見えよう。
されど、母には、この道しか見えぬ……。
それ程に〝この闇〟は深く暗い……。
母の苦悩を、男たちは知らない…──。
闇は……既にカルデラの西──マールロキンの地にも達している。
そして、風に春の香りを感じるようになった頃──。
アロイジウスは、春風の中、ロルバッハ砦の中庭に立っている。
もう4半
中庭を囲む館も竜舎も焼け落ちており、記憶にある姿を残していたのは石造りの塔くらいだった。あの〝焼討ちの夜〟の惨禍をそのままに遺したのは、後事を任された竜騎フルヴィオ・ガスコの判断である。
──あの夜この場所で何が起こったか、その痕跡の一切を掃き清めて糊塗するが如き処置は〝竜騎ならば望まない〟と、同じ竜騎であるガスコは判じた。
ガスコの判断に、やはりアロイジウスは感謝している。
そのアロイジウスの立つ中庭の一画──そこだけは手が入っていた。
そこはロルバッハ家代々の墓地で、真新しい3つの墓石の下には養父のファリエロとその妻ノルマ……そしてアニタが眠っている。
ガスコは、ロルバッハ夫妻の遺体と共に瘴の雲に身を投げたアニタの墓もこの場所に建て、人を遣り手入れをさせていた。
いまアロイジウスは、養父母の墓標の前に仇──ルーベン・ミケリーノを討ったことを報告し、そして墓石の下にはいない〝妻〟の魂の声を聞こうと、耳を澄ましている。
仇討ちは
アニタの声が聞けたなら何かの区切りも得られるだろうかと、そう思うアロイジウスだったが、聴こえるのは春を告げる穏やかな風に乗って届く、ヒバリの声ばかりであった。
それはわかっていたことだったが、
「アロイジウス卿……」
自分を呼ぶその慎んだ少年の声に、アロイジウスは我に返った。
少年の顔を捜せば、中庭の端に静かに侍していた。
アンダイエの上空でアロイジウスが救い上げた、あの竜騎見習いの少年だった。
──彼はあの後、〝命の恩人〟の許に師事すると決め、アロイジウスに付いて来ていた。
名はテオ・ガスコ。
そしてテオの父は、奇しくもロルバッハ砦の管理を任されたフルヴィオの弟のバレリオ・ガスコであった。
その生真面目な表情のテオの側に、彼にとっては伯父であるフルヴィオ・ガスコが立っていた。
フルヴィオは、
「──竜騎フルヴィオ・ガスコ……我が伯父です」
テオの紹介を待って壮年の竜騎は頭を下げた。2人はこれが初対面である。
アロイジウスも作法に則り礼を返し、その上で養父母の件に関してあらためて礼を述べた。
そうして2人の竜騎は話を始めた。
話とは〈ロルバッハ砦〉の〝受け渡し〟に関する申し送りである。
「──しかし、本当によろしいのか?」
元々書面の写しを交わしてあり、申し送りは形ばかりであったが、
小なりといえ〈ロルバッハ砦〉は自治島。歴代のロルバッハが守ってきた所領である。
確かにそれは盟約に縛られることで成り立っていたが、裏を返せば盟約に守られた〝貴人の封地〟…──それを手放すことの意味をこの若い竜騎は理解しているのだろうか。
だがアロイジウスは迷いのない声で応じた。
「もう決めたことです。盟約を破棄する以上、砦は返上せねば……」
此度のアンダイエの変で、アロイジウスは聖王朝に弓を引いた。
その罪はプレシナ大公の計らいで問われることはなくなったが、養父母をシラクイラの権門に殺された彼にとり、今さら聖王朝とは〝盟約を介して忠誠を誓う対象〟足り得ないものとなっていた。
──事実、ジョエレ・ダオーリオの言った通り、聖王朝は盟約にあったロルバッハを守りはしなかった……。
アロイジウスの目を見たフルヴィオは、もうそれ以上なにも言わなかった。
「
話題を転じるよう、アロイジウスが中庭を見渡すようにして口を開く。「係る支出は年の始めに届けるようにします」
アロイジウスの言に、〝
「清掃は欠かさずさせましょう。いつ参られても好いように」
フルヴィオは敢えて堅苦しく応じた。アロイジウスは〝契約の話〟をしている。ならば曖昧な言葉を取り交わすのではなく、対価を介した合意を交わすべきだった。
「……例え〝武門の習い〟で翼の向きを
「かたじけない…──」 アロイジウスは心から言った。「砦の新たな主人が貴方で好かった。
アンダイエの変の後、島嶼諸邦の独立竜騎アロイジウス・ロルバッハは聖王朝との盟約を離脱し空中砦を返上した。砦には独立竜騎フルヴィオ・ガスコが替わって入り、ガスコ砦と名を変えることとなる。
アロイジウスはテオを連れ、放浪の竜騎として
アティリオ・マルティの〝周到の人〟の二つ名を引き継ぐこととなったアニョロ・ヴェルガウソは、マルティの家に入った。1年を故人の喪に服し、来年の春にはマルティの長姉クロエの夫となる。それに先立ち、子爵の位とシラクイラのわずかな領地を返上している。妹アニタが〝あのようなこと〟になれば、彼もまた、聖王朝に居続ける理由を失っていた。
マルティの娘といえば、変事の後、アルミロ・ダニエトロと交わした約定に基づいてシラクイラへ送られる姫は、末娘のビビアナ・ドゥルセと決まった。ルージューの正妻アグスティナ・ソフィアの美貌と気性とをそのままに受け継いだ15歳の少女は、この大任を自らに課するよう父伯ライムンド・ガセトに申し出たと伝えられる。やはり喪の明けるのを待って、先ず三公の一つアドルナート家に養女として入ることになっている。
ルージューに戻ったジョスタン・エウラリオは、そこに自らの片腕と恃むエドゥアルドの姿のないことを訝り、苛立ちを覚えている。エドゥアルドは病気を理由に〝マールロキンの軍配者〟を辞し、ルージュー城から下がっていた。
ルージューの〝果断の人〟にとり、弟アティリオに続き、言わば両腕を失うに等しい痛手であった。
夏の盛りの陽射しが
その3層の空中庭園に面した列柱回廊を、謁見の間を下がったアレシオ・リーノが歩を進めていた。
ルーベン・ミケリーノが首謀した『アンダイエの変』の不首尾は、フォルーノクイラの力関係を一新し、その顔ぶれを刷新させていた。
直系子息であり一門の武名を束ねていたルーベン・ミケリーノが咎人とされたことにより、マンドリーニは聖王宮より遠ざけられることになった。代わりにそれまでマンドリーニの政に距離を置いていたプレシナ、マルテッリ、アッサンドリといった旧家が表舞台に返り咲いている。
『アンダイエの変』の幕引きをしたアルミロ・ダニエトロの真意──…、西方の収拾のあり方、その眼目は、〝対ルージュー〟ではなく〝対マンドリーニ〟にあったことは、もはや誰の目にも明らかであった。
アレシオ・リーノも此度、聖王朝創始以来の名門大隊〝第2プレシナ〟の指揮官となっていた。
回廊を急ぐアレシオは此度のことを考える…──。父大公の採った〝方便〟は間違ってはいない。聖王宮とはそういう場所……〝やらなければやられる〟、それだけのことだ。
そう〝頭に収める〟ことはできても、一向に〝腑に落ちて〟こないことに、アレシオは知らず首に下げた小金貨のペンダントに手を伸ばしていた。
──〝施しなど受けぬ〟……か…………。
此度の〝昇進〟……それが正当な評価故のものでないことを知っている自分は、あのときの娘のように、これを〝突き返す〟べきだ、……そう思う自分がいた。
だが、実際のアレシオ・リーノはそういうふうに動きはしない。
与えられた機会は、最大限に利用する。
それを求められる立場の者だった……。
アレシオは左翼館の一室に入った。
そのまま歩を進め、室内に居並ぶ武官が威儀を正すのを満足気に見遣る。
彼の為の『近習衆』の姿がある、
ポリナーロ・カリスタ・アルベリーニ、
オンツィオ・アルバーノ・リオーネ……、
そして、エリベルト・マリアニの顔がそこにあった。
アレシオは此度の人事でエリベルトを呼び戻したのだった。
「エリベルト……プレシナ家麾下の竜騎の誉れ──近習衆筆頭は、やはりお前だ」
「はっ……あり難き御言葉」
2人の間に、それ以上の言葉は不要だった。
カルデラの地を舞う風は、一先ずは止んだように見える。
だが時代は常に〝強い風〟を求めている。
〝風を読む者〟には西に巻いている風を感じ、東からやがて力を溜め込んだ風が立つだろうことがわかる…──2つの風が激しく当たる様を見て取ることができるのだ。
〝プレシナ〟と〝ルージュー〟という大きな渦が、やがて互いを巻いて西のカルデラの地を覆うことになる。
それは、次なる巻で語られよう…──。
【第1部完】