風鳴 4
文字数 4,713文字
「……まってくれ」
それまで聞き手でいたアロイジウスが〝ロルバッハ〟の語を含んだ言を耳に捉えるや口を開いた。
「──アニョロ? いま何を……?」
何かを恐れるような声でアニョロを質す。
それは、不意に不思議なことを口にした義兄に、〝そんなことは言っていない〟と言って欲しい……というふうな云い様であった。
アニョロはそのアロイジウスの表情に言葉を呑み、ペナーティとタルデリに目線で質した。
目線を向けられた2人は話の流れの〝当然の帰結〟にそれぞれ神を呪うような表情となったが、やがてペナーティが重い口を開いて言った。
「……すまない。アロイジウスには、まだ伝えていなかった」
アニョロは深く息を吐き出すと天を仰ぐようにした。それでアロイジウスが色を失った。
「…………」 面を上げられずに声だけで訊く。「──それじゃ……」
ペナーティが、観念をして沈痛な面持ちでアロイジウスに歩み寄る。懐から書状──フルヴィオ・ガスコからの書面──を取り出し、アロイジウスに差し出した。
アロイジウスは、わずかに逡巡してそれを受け取る。受け取りしなに、
「──アロイジウス……」 アニョロの平板な声を聞いた。「声は上げるな。……外に兵がいる」
アロイジウスはアニョロを見て、それから意を決して書状を開けた。
アロイジウスの目から、涙が溢れ始める。
涙が頬を伝い始めると、その肩が大きく震え出すのにもう時間は掛からなかった。
だが声は上げない。
声の無い慟哭だった。
アロイジウスは奥歯を噛み、引き結んだ口許から嗚咽の漏れるのを必死に堪えている。
激情に握り締めた手が震えて書状を丸め潰してしまいそうだった。アロイジウスはそうなる前に思い止め、手の中の書状がとても大事な物であるかのように、書状に浮く、つい今し方に生じた皺を丁寧に伸ばし始める。
ずいぶんと、言葉の無い時間が過ぎた。
やがて書状を懐に仕舞ったアロイジウスは大きく息を吐き出し、口を閉ざし佇んでいたアニョロに向け静かに言った。
「俺も行く」
アニョロは小さく肯いて返した。
後は押し黙ったアロイジウスの
「それで、その〝策〟というのを聞かせてもらおうか……」
あらためてロターリオが口を開いた。ペナーティがそれを咎めるように目を遣ると、ロターリオは片方の掌を掲げてペナーティを遮った。
「──ボニファーツィオ卿……、回りくどいことは止そうや」
ペナーティはざっくばらんな口調になって続けた。
「ルーベン・ミケリーノは
そんなロターリオに、ペナーティの口許が綻ぶ。ペナーティは小首を小さく振ると、アニョロの顔を真っ直ぐに向いて質した。
「では聞こうか。──言っておくが
それにアニョロは口許に不敵な笑いを浮かべ、自ら立案したアンダイエ攻めの目論見を語った。
アロイジウスは、暗い目でそれを聞いていた。
愛する者を奪われたことで生じる尽きることの無い激情は、冷徹な意志の力で抑え込んでいる。
ルーベン・ミケリーノ……ヤツは、ヤツだけは赦せはしない。
何があろうと、どんなことをしようとも、あの首級は上げねばならない……。
このとき、若い竜騎の心は、唯それだけに囚われていた…──。
その後…──〝浮舟の砦〟は即日〝開城〟ということとなった。
砦に籠った西方軍の将兵は、残された2隻の飛空船に分乗して、陽が傾き始める頃には出帆した。この時、ペナーティはアニョロの計画を武官・士官の全員に明かしてはいない。タルデリ赴任以前から西方に居り、個人としても信用の置ける人物にだけ明かしている。
慌ただしく抜錨した2隻は、途中、ルージューの用意した補給船から水と食料の提供を受けると、一路、南へと速度を上げた。
一日の終わりの陽が西の雲の下に沈みゆく。その残照の中を、高速を発揮する細長い飛空艇が南の地平線の雲間に消えようとしている。
それを遠くに見遣り、ロターリオは側らに立つペナーティに言った。
「さて、この〝仕込み〟…──上手くいくかな?」
先行したルージューの高速飛空艇にはアニョロとアロイジウスが乗っている。彼らに科せられた任務は、ルーベン・ミケリーノ率いるマンドリーニの船団に先駆け隠密裏にアンダイエに入り、彼の地の留守居部隊の将兵にルーベン・ミケリーノの独断と専横を説いてその誅殺を説得する、というものであった。
「この策はアニョロ・ヴェルガウソが立てたもの……〝策士殿〟は上手くやるだろう。アロイジウスも機転の利く男だ。仮に不首尾に終わろうとも、未然に捕らえられるようなことにはなるまい」
ペナーティはそう応じた。
それにロターリオは頷いた。シラクイラでのアロイジウスの働きは聞き知っている。
と、
「訊いていいか」
出し抜けにペナーティがロターリオに言った。ロターリオが目線を返して先を促す。
「曲がりなりにも〝男爵位〟を持つ卿が、聖王朝の門閥に弓を引くことはないと思ったがな」
淡々とした口調のペナーティに、ロターリオもやはり同じような口調で応じた。
「不思議かね?」
自身は爵位を持たぬ地方竜騎であるペナーティには、〝ルーベンを討つ〟というアニョロに、ロターリオがまっ先に同調したことの機微を知っておきたい思いがあるのだろう。明かしてしまえばつまらないことだが、ロターリオは包み隠さずに答えることにした。
「……昔、妻に迎えようと考えていた女がいてな。飾り気のない、真っ直ぐな女で──そうだな、少しアニタ嬢に似ていたかな…──」
ペナーティが少し驚いたように目線を向けかけてきたが、ロターリオは無視をして続ける。
「俺も若く、いい格好がしたい頃で……野心もあった。
が、そこは田舎者の哀しさよ。上を目指すにはシラクイラの権門に取り入ることくらいしか術がない。つまらぬ男の下について、他人に胸を張って言えぬようなことまでしたよ。
そんな慣れぬ生き方に汲々とする俺の姿に愛想が尽きたのだろうな……、女は終に俺の許を去っていった……」
「…………」
ペナーティは黙って傍らの巨漢を仰ぎ見た。見知った者の誰もが〝豪放磊落〟の印象を抱くロターリオであったが、彼にしてそんな鬱屈を抱えていたか…──。
そんなペナーティの視線に、ロターリオは、
「卿の言う爵位とは、俺にとってはそのようなものだが、それでも父が苦労して手にした爵位の手前、
が、こんな理不尽の片棒を担がされた挙句、
あらためてペナーティを見返し、ニヤと笑ってみせた。
「──いま
ペナーティは、その笑い顔で納得をすることにした。
この
そうだ、そんなものだと得心をして、ペナーティは〝死に場所〟を放棄して
視線の先の飛空艇の影はいまはもう小さくなり、
飛空艇の上ではアニョロが暮れゆく世界に目線を遣っていた。
ルージューのアティリオ・マルティの用意した艇は大きめのもので1層ながら甲板を備え、その上には2つの天幕が広げられていた。アニョロは、割り当てられた天幕にアロイジウスを残して1人、甲板に出たのだった。
妹の死を聞き知って後のアロイジウスの
──〝復讐〟という饗宴に参じるには、自らの心の
弟のように育ったアロイジウスの変容を、アニョロはそんなふうに理解している。
尤も、アニョロの
風が冷たかった。
薄く吐いた息が白いのに、アニョロは何故だか安堵の笑みを浮かべた。
ふと
「この寒さの中の監視は辛かろう」 もう随分と前から時折り感じていた視線の主に声を掛けた。「──アティリオ殿の指示であろうが、同じ船に乗る仲だ。出て来られよ」
そうすると、天幕の陰から西方風の
残照の中で鎧の人影は、アニョロから距離を置いて無言で止まった。兜の
愛想というもののない小柄な鎧姿に、アニョロは苦笑しつつ言った。
「西方では
線の細さにひょっとしたら女性ではないかと踏んで鎌をかけてみた。が、鎧は何も応えない。
「口が利けないのか、それともそう訓練されているのか……」 溜息交じりにアニョロは続けた。「──ま、それならばそれで良いさ。なれば男、ということで接しよう。……客人としての船の上はやはり
「…………」
鎧の周囲の空気が先を促したようなので、アニョロは続けた。
「西方の民は男も女も誇り高いな……それは認める。が、この後、お前たち西方の民はシラクイラに刃向かった先の展望を持っているのか?」
予てより思っていたことを訊いてみた。マルティの御曹司の衛士は、もちろん
鎧は、わずかに逡巡をしたようだった。だが言葉は発しない。
そうであろうな、とアニョロは内心苦笑する。
アティリオ・マルティの衛士だ。聖王朝の官吏貴族に軽々しく語ることはしないか、と思いつつ、何故だか解らなかったが、アニョロは自分のことを語ることでこの西方人と距離を詰めてみようと口を開いたのだった。
「──…実は西方の女に惚れてね。
貴殿にとってはどうでもよいことか……が、まぁ聞いてくれ」
鎧が黙ったままなのでアニョロは続けた。
「一度は妻に定めたのだが、シラクイラに弓引くことを決めて、別れた……言い訳だが、その女に累が及ぶのを避けたかった。
その
鎧は応えない。アニョロは苦笑気味に続けた。
「未練は断ち切ったつもりだが……、
アニョロはそう語った末に鎧に質した。
「〝そういう戦い〟の準備を、ルージューは出来ているのかな?」
「──…ルージューは勝ち方の見えぬ戦などしません」
鎧から漏れ聞こえてきたその声に、アニョロは声を失った。
それがやはり女の声であったということよりも〝よく知った声〟であったことに、アニョロは天を仰ぎたくなった。
鎧の方もまた、自分の声に身を固めてしまっている。
策士を自認するアニョロは、画に描いたようなこの失態に頬にまで熱を感じつつ、鎧に向き直った。