風の子ら 4
文字数 4,018文字
午後の陽光が館の中庭に降り注いでいる。
館の主であるアニョロ・ウィレンテ・ヴェルガウソは、手にした書物から視線を上げると、サイドテーブルから、とうに湯気の立っていないカップを手に取って口元へと運んだ。一口啜ったカップを戻し、しばし思案顔となりやがて想像の翼を広げるふうな夢心地な
「西のカルデラの地にはいまだ水が湧き出し、流れとなって泉へと注いでいるという。朝にはその水面に靄が掛かり、それは幻想的な風景だそうだ。行ってみたいものだ」
アニョロはそう言うと、側らに立つ友人のエリベルトから何か言葉を引き出そうと口を噤んだ。中庭の
「──俺は武人なんだ。景色の良し悪しはわからないし、そもそも気にしない」
振り向きしなから申し訳なさそうに肩を竦めたエリベルトは、そう言って苦笑した。
「エリベルトよぉ~……オマエ、相変わらず面白くないヤツだなー。宮中に詰めて雅を解さんでは出世だって出来ないだろーに」
そんな友人の顔を肘掛け椅子から見上げながらアニョロは手にした書物を閉じた。彼の口許にも苦笑が浮かんでいる。エリベルトが〝夢見がちなアニョロ〟の趣味に深入りをしないのはいつものことだった。
「俺の出世は戦での武功ということになる。いまの話を聞いて俺が思うことは、
「確かに……」
雅ではなく実を語るのがエリベルトという若者で、それさえも出来ないのであれば付き合う意味のない男とアニョロは思っている。エリベルトもまた同じように思っていて、実の方の話題であれば応じる彼であった。
「──水脈が豊かということは農作物の実りも豊かということだ。カルデラの底には水を通さない層があるんだろうな。何にせよ豊かな土地だ。加えて膨大な飛行石の埋蔵量……。聖王家が放っておかぬ訳さ…──」
エリベルト・マリアニは19歳になっていた。竜騎見習いに志願をした年から7年の歳月が流れ、その物静かな貌からは幼さはほとんど消えていた。いまは正式に竜騎に叙され宮廷竜騎としてアレシオ・リーノの側に仕えている。その蒼い瞳の中の生来の怜悧さを隠す術も覚えてはいるのだが、アニョロ・ヴェルガウソの前では特にそのようなこともしない。
一方、友であるアニョロ・ウィレンテ・ヴェルガウソはこの年18歳。先年に父アルバン・ハシントが病で亡くなり、若くしてヴェルガウソ子爵家を継いでいた。竜騎見習いの資格こそ有しているがまだ竜騎には叙任されておらず、むしろ神殿付きの〝知識の間〟に詰める学究の徒であることを大事にしている男である。弓よりも筆を取ってこその才人であった。
「元老院はいまだにルージューに執心しているのか?」
エリベルトは近年
「執心なんてもんじゃないね。ありゃあ……〝お前の物は俺の物、俺の物も俺の物〟ということなんだろ──。ま、
元老院による〝飛行石に纏わる技を持つ諸邦〟に対する無理筋とも取れる威圧的な政策判断の背景には、近年の浮き島の中枢飛行石の力の減退という理由がある。聖王朝の首府の在るシラクイラの飛行石〈ファシシュ〉ですら例外なく、この20年余りでどの浮き島も随分と高度を失っている。だが、その事実は島に住まう大多数の民には伏せられていた。替わりにやらなくてもよい
エリベルトは武人であったが、それでも溜息を吐いて思う。
(事実を公表したところで何も変わらぬ以上、仕方のないことだが…──人は己の見たいことしか見ようとしない生き物、ということか……)
聖王朝にとっての悲願とは、いま島を浮かせている帝国期の〝古き石〟に替わる新し強い飛行石の精錬であるはずなのだが、失われた知と技は
武力を以って威嚇し意に従わねば攻め滅ぼす。それでは如何にも余裕がないし芸もない。性急である以前に稚拙…──諸侯にとっては〝古き石〟に纏わる技こそ邦を治める統治の力の源泉である。〝はい、そうですか〟と差し出す者が居ようか?
またその余裕の無さが諸侯を警戒させるのだ。〝箸と主とは太いがよい〟と小邦の糾合を促す。現に西のカルデラの六邦などはルージュー辺境伯とその一族の下に服して久しい。──武力で脅し、脅された方は武力に備える。これの繰り返しとなるのは世の道理である。
だが良質の飛行石を含む鉱床が次々と瘴に沈んでいっている
(──…にしても、もう少し上手くやれないもんかね)
そう思うアニョロである。が、同時にこうも思っている。
(もっとも、獣として巧く立ち回れば人の道に背く、か……。誰だって人でありたいものな……)
と……。
竜騎と学徒という2人がそれぞれに思うところをどう切り出そうかと思案していると、出し抜けに明るい声が耳を打った。
「
2人の居た
「……?」 アニタは、そんな2人を怪訝に見返す。「──…どうしました?」
「アニタ。ふつうオマエのような
妹はきょとんとした目を返した。
「なぜです?」
「なぜってオマエ……」
絶句する兄を前に、アニタは自説を言い募ってみせる。
「ヴェルガウソ家は代々竜騎を輩出するような家柄じゃないけれど、それでも全くの学者家系というわけでもないわ。兄さまが弓のお役に立てないなら、せめて私が代わりを務めなくてはならないでしょう?」
「オマエの〝竜騎かぶれ〟は俺の代わりか⁉」
「ええ」
最後に澄まし顔でそう応えた妹は、どうやら彼女なりに本気らしかった。
毎日の弓と〝飛竜を御す〟鍛練で陽に
「…………」
兄はバツの悪い
そんなアニョロの視線がアニタの顔からその背後へと移った。それに気付いたアニタが、
「あ──、そうだ、アーロイ……」
と、思い出したとばかりに声を上げ、後ろを振り見遣る。
そこには14歳と19歳となった巻き毛の姉弟──アーロイことアロイジウス・ロルバッハとユリアの姿があった。アニョロとアニタの視界の中、アロイジウスは姉と共に頭を下げると、あらためて館の主であるアニョロに笑顔で挨拶をした。
「只今帰りました、アニョロ殿」
アロイジウスは穏やかな微笑を浮かべていた。奴隷から引き上げられた戦災孤児は、老ファリエロの下で育った3年間とヴェルガウソ館での3年間とで、そんな
「おう、帰ったかアロイジウス。この3年余りをオマエと過ごした妹はすっかり竜騎にかぶれちまったぞ。いよいよとなったらオマエに責任を取って貰うからな」
「責任って……」
全くの言い掛かりと言ってもいいアニョロの言葉に、忽ちアロイジウスは困ったような
アニタはそんなことを言ってアロイジウスを困らせる兄を睨め付けて声を上げた。
「兄さまっ! 私のことについての責任は私が取るものです。アーロイは竜騎見習いとして、自分のことに精一杯なんだから」
そんなふうに言い募る妹を見て、今度はアニョロがニヤニヤと面白がるふうな
アロイジウスの隣に控える美しい女性に、心奪われでもしたかの様に固まってしまっていた。
アニョロはそんな友の横顔にわざとらしい咳ばらいを一つしてから、
「それで、そちらがお姉君の…──」
とアロイジウスに視線を戻す。
それにアロイジウスが応える前に、女性はもう一度深々と頭を下げると自ら名乗った。
「──ユリアと申します」
面を上げたユリアと視線が合ったエリベルトは常の彼らしくなく一礼して視線を逸らすと、黙って館の主の紹介を待った。