西の辻風 6
文字数 3,529文字
その客間の窓辺に、レオ・マリアは唯一人佇んでいた。大きく造られたガラスの窓からは月の光が射し込んでいる。室内に灯りはなかった。
背後でドアが開き、館の主が音もなく滑り込んでくるのが解かった。
「──お待たせしました……」
レオ・マリアが視線を向けると、ドア付近の人影は丁寧に一礼をしてみせた。その手に灯りのないことに苦笑させられる。今宵、この居館のこの部屋に人影があるのは少々具合が悪い、ということなのであろう。
ピエルジャコモは月明りの中を静かに進み出てきた。男盛りの端正な顔が影の中より現れ出る。
レオ・マリアもピエルジャコモも、こういった芝居がかったことが嫌いではなかった。が、互いの年齢──レオは43歳、ピエルジャコモは不詳だが30代の半ばだろう…──を考えたときの滑稽さは承知している。アティリオなどはともかくジョスタンなれば冷笑を浮かべよう。
「わざわざ宴席を中座してまで我が館に足を運ばれるとは、何かありましたか?」
レオ・マリアの隣に立つと、ピエルジャコモはそう言った。
夜分に押しかけて来た〝招かれざる客〟とは言え、酒の一杯も振舞う気はないらしい。
もっとも、レオ・マリアの方とてそんなものを望んでここまで来たりはしない。
本題に入ることにした。
「昨夜、カルデラの南を〝探る者〟がありましてな。 ──なんとアンダイエの商館長代理と西方長官附きの武官であった」
ピエルジャコモの横顔に表情はなく、黙って先を促す。
「彼らを使いたい」
「会われて〝取引〟の相手としたい、ということで?」
「いや……」
ピエルジャコモに質されたレオ・マリアは、小さく顔を左右に振った。
「いまはまだそれには及ばないが…──あの男との間に、一朝有事の際の気脈を通じておきたい」
「ほぅ……」
ピエルジャコモがレオ・マリアをあらためて見遣る。その目が細まった。
「レオ・マリア殿の〝お眼鏡に適った〟か……」
「
レオ・マリアはそれだけ言うと口許で笑った。
「──…それは、ま、確かに……」
ピエルジャコモも口許で笑って返し、
「互いに商館で働いておれば〝表向き〟の関りがありますからな」
端正な顔の口許に右の手を添えるようにして思案顔となる。直ぐに答えを纏めるふうに口を開いた──。
「よろしい……。ルージューから誰か一人、
「そうしてくれるか」
レオ・マリアは満足したふうにピエルジャコモに頷いたのだったが、後日になってその送り出した人物がに自分の姪──クロエになろうとは、このときには思いもしていない。
実はこの〝ピエルジャコモの考え〟と、二の丸の庭園で〝アニョロがクロエに授けた知恵〟とは同じものだったのだ。レオ・マリアがコレオーニ商館に送り出す者の人選を始めるよりも先に、クロエの方が名乗りを上げてきたのだった。むろん、レオ・マリアもピエルジャコモも、アニョロがクロエにそれを薦めたことを知らない。
「ところで……」
実務の用件を一つ済ませたところでピエルジャコモが話題を転じた。
「ライムンド殿だが、あれで良かったとお考えか?」
レオ・マリアは表情を消した。
今宵、このピエルジャコモの館を訪ねたもう一つの理由は、そのことだった。
ジョスタン・エウラリオとユレ家のオリアンヌとの婚礼に西方長官を招いたこと。それによって生じた事態の趨勢を、この男がどう捉えているのか知っておきたかったのだ。
レオ・マリアは慎重に口を開く。
「とは?」
「西方長官のために〝仮の館〟をわざわざ新築し、そこに女どもを遣わせました。──…それでも足りず
「それらを用立てたのはそなたではないか」
「むろん私は益が出ればそれでよろしいわけで…──商売人なのでね……。だがレオ・マリア殿はそれでよろしかったか?」
むろんレオ・マリアとピエルジャコモとでは、立場も利害も異なる。
探るでもなくそう水を向けるだけのピエルジャコモに、レオ・マリアはしばし考え
「力を〝見せ過ぎ〟ていると?」
結局、そう訊いたレオ・マリアに、ピエルジャコモは淡々と言った。
「
「…………」
レオ・マリアに返す言葉はなかった。ピエルジャコモの言葉には同意である。が、この件に関しては兄ライムンドと散々話したことだ。──西方長官を懐柔することで〝主導権を握る〟…──それがルージュー一族が出した結論だった。
レオ・マリアは溜息を飲み込み、ピエルジャコモに言った。
「だが、聖王朝との対決は不可避だ」
「……で、ありましょうが……まだ早い」
ピエルジャコモはにべ無く応じ、そのルージューの判断を時期尚早と断定した。断定されるとレオ・マリアは苦笑するしかなかった。
(商売人のこの男と〝裏向き〟の仕事を
思わず笑いが漏れると、ピエルジャコモの視線を感じた。
「いや、火薬を手土産に、プレシナに近付くそなたの言うことか、とな」
「
レオ・マリアのその嫌味にも何ら悪びれるでなくピエルジャコモはそう
やはり〝食えない男〟である。
「アレシオ・リーノ、か……」
レオ・マリアもまた、ピエルジャコモの口にしたその名に、以前から注目している。
カルデラ内外の情報を束ねる〝周到の人〟アティリオの報告に度々上がる名である。
「聖王朝がカルデラへ兵を進めるとなれば、やはりプレシナ、とみているわけか」
そう探りを入れると、ピエルジャコモは否定した。
「いえ。彼らはルージューの方から事を構えねば、殊更に武威に及ぶということはありますまい」
「…………」
今度はレオ・マリアの方が黙って先を促す。
「むろん聖王朝の最終的な狙いはここ〝西のカルデラ〟……〝世に両雄の並び立つ例はなし〟といいますからな」
窓の外から、梟あたりの声が聴こえてくる。
「──されど
何処からの情報かと訝るところもあるが、その情勢と分析はアティリオのものと一致している。むろんレオ自身もそう考えていた。
だがピエルジャコモは、〝プレシナが動かぬ〟ことを前提に、
レオ・マリアは〝一つ〟先回りをして訊いた。
「その〝余程のこと〟が起きて〝寝てくれているドラゴンを起こす〟ことになると?」
「
「回りくどいな」
「あなたでもそうするでしょう」
ピエルジャコモの〝人の悪い〟その嗤いを、レオ・マリアは否定はしなかった。
「私が見るところ、プレシナの精鋭が攻め上って来るのでもなければカルデラの地は落ちますまいな。……が、余程に上手く収めねば〝次の軍〟が送られることになる……それを退けても〝次〟、また〝次〟……と」
「夏の辻風のようなものだな……」
切りがない、ということだ。そして…──、
「最後にはプレシナが来ることになる」
口にしてみてレオ・マリアは、兄を説得できなかったことを後悔している。
(確かに早かったやもしれぬ……)
しかしこうなった以上、しばらくは様子を見守るしかあるまい、と覚悟が決まった。
そうすると、ふと気になっていたことを問うていた。
「そなたはなぜ我がルージューに肩入れをしてくれる?」
ふっ、と、ピエルジャコモの端正な横顔に笑みが浮かんだ。
「私はルージューの政商。この地に投資をしておりますれば、少なくとも元手を千倍にはしないと割に合わぬのですよ」
と韜晦してみせる。
窓の外から〝