微風 5
文字数 4,332文字
アロイジウスとアニタの2人がシラクイラの西岸の港町、オーヴィアに着いたのはそれから11日が過ぎた陽の落ちる間際の時間帯だった。
船長よりコレオーニ商館への紹介状を手渡されると、さっそく2人は商館を訪ねている。商館では、ユレ家の娘オリアンヌを妻に迎える婚礼でマルティ家の用意の一切を手配したという男を紹介された。
兄のアニョロからは、ヴェルガウソ館を抵当に入れてもよい、と送り出されてきたが、
この時点で、クロエという〝
……後になってクロエという人物を理解した時にアニタは、もう少し誠意を込めて事に当るべきであったとこのことを反省することになる。
とまれ、兄から言付かった務めを(
そんなアロイジウスの目論見の通りに事を運ぶ理由はないとばかりに、アニタは〝後日に細部を詰める〟とコレオーニにコーディネートを負託してしまうと、後はもうアロイジウスに同行するのが当然とばかりの
アロイジウスはエスティクイラまでの帯同を押し切られた。
3日後、早くも2人はエスティクイラの造船所の在る敷地内に入っていた。
オーヴィアからはメツィオを経由する軍の定期便を乗り継いだ。軍役にある竜騎のアロイジウスと違いアニタには軍の船に乗る資格は本来なかったが、無理を承知で掛け合った際に〝妻になる
メツィオから乗り継いだ高速艇が造船所の敷地の中に入ってゆくと、広大な敷地の中の其処此処に並ぶ飛空船の威容と、その周囲を忙し気に立ち回る労働者の喧噪とに、アロイジウスもアニタも圧倒させられた。
やがて艇が造船所内の空中桟橋に着くと、周囲の喧騒がいよいよ大きなったと感じる中、2人は踏板の上に降り立った。
一番近い船渠には、15パーチ(≒45メートル)は有ろうかという大船が横たわっていた。
2人は知る由もないがプレシナ大公家が私財を投じて建造させている〈シグニール〉であった。その優美でありながらも禍々しい怪物の姿は、アロイジウスの記憶にしっかりと残った。
その後2人は東方軍の建物の在る一画にエリベルトを訪ねたのだったが、折悪しく非番とのことで造船所の外の官舎の方へ行けと言われた。東方軍の彼らが西方長官府附きの竜騎に案内を付けてくれるようなことは勿論なく、アロイジウスとアニタは2人だけで造船所の敷地の外に出ることとなった。
造船所の外も、職人相手の街は大層な喧噪に満ちていた。
そんな職工の街の賑わいはアニタの想像を超えていて、シラクイラの中心メツィオなどよりも、ひょっとしたら民の生気に溢れているようである。
2人の眼前を、多くの職人を乗せた乗り合い馬車が過ぎて行った。浮き島の町中では馬という動物は珍しかったが、なるほどこのような力仕事に重宝されている。動物の好きなアニタは、この時代には珍しくなっていたこの生き物に自然と目線がいった。
と、乗合馬車の
隣のアロイジウスを見上げると、バツの悪くなった声で言った。
「なんか……騒々しい所ね……」
アロイジウスは苦笑すると、曖昧に肯いた。
彼はアンダイエに赴任する前に一度エスティクイラを訪ねているので、この街の雰囲気はだいたい理解していた。ここは職人と労働者の街なのだ。
少々思案した末、これから訪ねるべき官舎の立地も知っていたので、街で遅くなった昼食を摂れるところを探して入ることに決めた。少し〝気になる〟ことがある。
2人は造船所の正門付近の宿に入ると、食事だけ出来るかどうかを訊いてテーブルに着く。程なく給仕に若女将がやってくると何気ない感じに訊いた。
「──…半年ほど前に来たときよりも人の数が減ったかな?」
若女将が、やはり何気のない口調で訊き返す。
「どうしてだい?」
「知った顔が見れなくてさ……それになんだか職人の
この〝知った顔〟云々は適当に口から出てきた〝出まかせ〟だ。だが若女将は、それで〝嗚呼〟と笑顔になった。
「随分な数の職人がコレオーニに引き抜かれて〝西の方〟へ移ったからね。仕事は減ってないから、残った職人は大変だろうね」
「西……というとシラクイラに?」
「あたいの妹の旦那も移ってったけど、〝西のカルデラ〟って言ってた。遠いよねぇ」
そう言って若女将が奥に引っ込むと、テーブルの向かいからアニタが素直な目で訊いてきた。
「ここに知り合いがいたの?」
アロイジウスは曖昧に笑って返した。
食事は味も量も満足のいくもので、久し振りとなる穀物主体の〝浮き島の料理〟に満足したふうのアニタに、アロイジウスも満足だった。ちなみに、アンダイエに生まれ島嶼諸邦に育ったアロイジウスは肉や乳製品の目立つ西方風の食文化に抵抗はなく、肉食を嫌う(……乳製品は好きらしい)アニタほどの喜色とはなっていない。
そんな食事を済ませた2人は造船所の北側の堀に架かる橋を渡り、東方軍の官舎の並ぶ界隈へと入ると姉夫婦の暮らす建物の門を潜った。
半年ぶり(正確には8ヶ月ぶり)にいきなり官舎を訪ねてきた義弟と、それに従ってきた親友の妹、という組み合わせに顔を見合せたマリアニ夫妻だったが、義弟の挨拶にとりあえず旧交を温めると、男は応接室へ、女同士は裏庭へと場所を移した。
ここから先は軍務の領域で〝女性が係り合うべきでない〟話をする。そういう空気をアニタも理解していた。
「何が起こった?」
「表立ってはまだ……ただ裏では色々なことが起こりつつありますよ」
アロイジウスはアンダイエの西方長官府での件を全て語った後、カプレントの商館でアニョロの指示を受けてここへ来たことを告げた。
終始黙って静かに聞いていたエリベルトが、アニョロがマルティ家のクロエに求婚をした、と聞いたときにはさすがに驚いたふうになってアロイジウスを見返した。
「……時間を稼ぐためか?」
アニタの出奔を隠蔽するための方便かと訊かれ、アロイジウスは首を振った。アニョロのあの様子とその後の言動では本気と思えた。
「なるほど……」
首を振ったアロイジウスを見ると、エリベルトは難しい
「アニョロは戦を避けたいわけだな……」
「
確かに、
ルージューと事を構える、ということになれば小競合いでは済まなくなる。
だがルージューの存在そのものが戦を招き寄せている、と考える者もいた。エリベルトの主、アレシオ・リーノなどはそう考えている。──辺境に強すぎる力が在るという事実が、世界の秩序を乱すのだ、と……。
現に〝マールロキン〟や〝ユレ〟といった決して小さくない邦々が〝ルージュー〟という大樹に寄っていっている。では聖王朝の命運が尽きたのかと言えばそうではない。強大な魔力と武力は、なお西のカルデラの地のそれに勝っている。
「
エリベルトは慎重に言葉を選んだ。
「が、何れは雌雄を決する相手……そうであれば、遅いか早いか、という違いくらいしかないのも事実さ」
アロイジウスもまた慎重な面差しになって言う。
「造船所で新造されている軍船を見ました」
肯いたエリベルトが後は黙っているので、アロイジウスは続けた。
「コレオーニは職人を西に送っています」
「わかっている」
双方が戦の仕度をしている…──それを互いに了承した上で……。
「戦は避けられない、と……」
「最終的には……おそらく」
「アニョロと〝
やるせなさの滲んだアロイジウスから、エリベルトは目線を逸らせた。
「それはアニョロに考えてもらうしかないが……直近で戦を止めたいのならシラクイラのランプニャーニ宮中伯の耳にこの話を入れるのが早い」
「ランプニャーニ宮中伯……」
アロイジウスの耳には馴染みのない名だった。
「元老院で非戦派を率いる論客さ。アレシオ様の政敵でな……この場合は、彼に動いてもらうのが良さそうだ」
「なるほど……」 エリベルトの言っていることに、アロイジウスは戸惑った。「でも、よろしいんですか?
「いまはプレシナ一門とて開戦を望んでいない。お前の見たあれらの船が戦力化するのに2年は掛かるだろう。それまでにタルデリごときの私欲に煩わされては迷惑だ……そうアレシオ様は考える」
少なくとも〝いまの時機〟での開戦を、アレシオ・リーノは考えてはいない……そう義兄は言っている。そして義兄は、
アロイジウスは肯いた。
「しかし、会って貰えますか?」
それが問題だった。非戦派に取り入るだけでよいのなら、アニョロとてもうやっていそうなものである。エリベルトは席を立って言った。
「アレシオ様に手紙を書く。 ──後はお前がそれを届け〝ランプニャーニに働きかける〟よう説得しろ」
「──‼」
言われてアロイジウスは目を白黒とさせて義兄を見た。
「……俺が⁉」
エリベルトは、そんな義弟に肯いて返すと書斎へと消えた。