禍つ風 3
文字数 4,958文字
その夜のメツィオは、夜の間中雨が降っていた。
執務机の上でランプの灯が揺れたと同時に、アレシオ・リーノは〝その存在〟に気付いていた。アレシオは、そっと首元に指を伸ばすと
視線を上げると、壁に踊る影の中に人影が佇んでいる。
「ごきげんよろしゅうございまして?」
鈴を振ったような声だった。
「あいにくのお天気でございますね。アレシオ・リーノ・プレシナ」
言って影の中から姿を現したのは黒衣黒髪の少女。
アレシオの目が、スゥ、と細くなる。
「何をしに来た、パウラ・アルテーア・アルソット」
黒い髪の少女──パウラ・アルテーアは、そんなアレシオの前に立つと優雅なこなしでカーテシーをしてみせ、笑いを含んだ小さな顔を向けて言った。
「──…新しい〝遊び〟を始めることにしましたの。ついては、そのご挨拶に……」
愉し気なパウラの声に対して、アレシオの声は探る様なものとなる。
「新しい遊び……?」
「そ。まだいろいろと下準備にやることがあるのだけれど……手始めにランプニャーニ伯…──」
「…──マウリツィオ・ジャンマリオ・ランプニャーニをどうした?」
アレシオを見るパウラの目が紫色に妖しく光る。
ある種の予感に顔を強張らせたアレシオに、パウラは愉しそうな微笑を浮かべて言った。
「死んでいただきました」
その事も無げな言い様にアレシオは言葉を失った。何とか声を平静に努めて質す。
「理由は?」
パウラは全くの淑女の態で鼻で嗤うと、こう言い放った。
「〝殺す〟のに理由なんていらないわ……でしょう?」
アレシオはスゥと息を飲むと、じっとパウラを睨み返した。
その様子に満足気な表情になったパウラが、上機嫌な声音で続ける。
「でも、しいて言うなら……これが一番、彼らが困るでしょうから……かしら」
その笑い顔に『彼ら?』とアレシオが視線で問うと、パウラが肩を竦めるようにして応えた。
「ロルバッハ砦のアロイジウス……と、ヴェルガウソ子爵家のアニタ。彼らのあの真っ直ぐな瞳の顔に困った表情の浮かぶのを見たいの」
「よくは解らぬが……それだけのために、
アレシオ・リーノ声に〝殺気〟に近いものが混じり込んだ。
「ええ」 パウラが、感情を逆撫でするような声で応じる。「あら、お気に触ったみたい……怖いお顔」
かつて師であり友であったランプニャーニをそのような〝要領の得ない理由〟で殺され、アレシオは拳を握った。
互いの考え方の中に〝価値の相違〟を見出したとき
アレシオ・リーノは黙禱をした。
そうしてパウラの白い貌にあらためて視線を遣ったときには、もうアレシオは平静を取り戻しており、常の硬い声質の声になって訊いた。
「アロイジウス・ロルバッハをどうしたいと?」
「──と、アニタ・ヴェルガウソ……」
パウラはさり気なく訂正し、鈴を振ったような声で続ける。
「苦しめるの。あの正義感ぶった……そう、貴方のような……愛らしい顔が、絶望の涙を浮かべて歪むのを見たいの。そうしたら、きっと貴方の澄まし顔だって歪むでしょう…──」
笑い出し愉悦に輝くパウラの貌をアレシオ・リーノの整った顔が睨んだ。
その視線を感じた途端、あっははっ、とパウラは嬌声を発した。
「……ね! ほら! その通り」
アレシオは少女を
「つくづく〝子供〟なのだな……そして何より下品だ、パウラ・アルテーア……」
パウラの口許が歪んだ。
「傲岸不遜! それは貴方も同じでしょう? アレシオ・リーノ」
アレシオを睨み返し、叫ぶようなその声音には、これまでとは違った昂りが混じっている。
アレシオはそれには何らの反応も返さず、ただペンダントを掲げて見せた。
パウラはあごを引くと、忌々し気に舌打ちをした。
アレシオを護るその魔除けの力は、彼女と同じ血の流れる〝アルソットの者〟が込めたものである。
それを身に付けるプレシナの者がアルソットの術に斃れれば、そのアルソットの術者も黄泉へと連れていく…──聖王家を巡る旧い取り決めに基づく、云わば安全装置と言える〝仕掛け〟であった。
「言っておく。死にたくなくば、私の友柄には指を触れるな」
アレシオの目に殺意が宿っているのを見て、パウラ引き下がることにした。
せっかく〝新しい
どのみち今宵は〝ご挨拶〟に赴いただけだ。まだまだこの先、アレシオ・リーノを困らせることはできる。
そう考えることで昂った気持ちと声音を落ち着かせた。
「いいわ。いまは手を出さないでおいてあげる」
パウラは目を細め、いま一度アレシオを見返した。
「わたしもいまはまだ死ねない。けれど、その友柄とやらの周りで〝死が踊る〟ことは避けられないと……そう心得なさい」
そんなアレシオに牽制の言葉を投げ掛けると、パウラはその美しい貌に感じの悪い笑みを浮かべて凄んでみせた。
「貴方も、まだ死ねないでしょ?」
「…………」
「それでは、ごきげんよう」
眉一つ動かさずに受けたアレシオにパウラは淑女の態に戻って腰を折り、そして部屋から消えた。
ランプニャーニ宮中伯が非業の死を迎えた夜から更に7日ほどが経つと、アロイジウスとアニタの2人を乗せた飛空船は、島嶼諸邦の中でも玄関口の島と言えるムランの空中桟橋に横付けしていた。
オーヴィアを発ってから12日目のことである。
この時期の風は〝向かい風〟であったが、コレオーニの商館の雇う飛空船は巧く風を扱い、約2日ほどの行程を短縮してみせたのだった。
アロイジウスとアニタはムランで船を降りると、桟橋に繋がれた幾つかの飛空艇と交渉をし、その日のうちにロルバッハ砦へと渡っている。
飛空艇の主は子供の頃からアロイジウスのことを見知っていて、同じ島嶼諸邦の他の砦の独立竜騎と違い、生真面目に商館の船の護衛と盟約に基づく軍役を
尤も、アロイジウスのことは〝ロルバッハ砦の悪ガキのアーロイ〟で、アニタのことをアーロイの連れて来た〝別嬪の新妻さん〟と承知して、道中ずっと幼きアーロイの武勇伝を語って聞かせたのだった。
長々とその話を聞く破目になったアロイジウスは、その間ずっとバツの悪い表情だったが、アニタの方は〝別嬪の新妻さん〟という言葉に終始上機嫌でいた。
そうして2人はロルバッハの空中砦に渡ると、中庭のハーブ園に居た養父と養母を前触れもなく姿を見せたアロイジウスが驚かせ、その後、側らのヴェルガウソ子爵家の令嬢を〝妻に迎える
このとき、ランプニャーニの死とそれによってもたらされたシラクイラの状況の変化など、ロルバッハ砦のアロイジウスには知る術さえない……。
一方その頃……。
カルデラの地の表玄関たるカプレントでは、アンダイエ商館の館長代理であるアニョロ・ヴェルガウソが、妻となるマルティ家の長姉クロエの口から、シラクイラ情勢の〝急変〟を伝え聞いていた。
コレオーニ商館を経由して伝えられた話は『ランプニャーニ宮中伯の突然の死』と『その後の元老院の動静』で締めくくられていた。
シラクイラからカプレントまで、順風でも20日前後の飛空船の旅路となる。その行程を待たずして情報が届いているということは、恐らく何らかの魔法の力を利用しているのだろう。
シラクイラ-アンダイエ間でさえその様な仕掛けを持たない。
「ではアロイジウスはランプニャーニ伯を動かし、元老院に西方長官府への介入を決議させることまではした、と……」
「ええ」 ごく近い未来に夫となる男にそう質され、クロエは手元の紙面を
実の所、情報を伝えてきた〝ルージューの政商〟ピエルジャコモ・コレオーニは、この情報をこの
商館の窓口として迎え入れたマルティ家のクロエにすら、コレオーニがこのような形で遠くシラクイラの情勢を〝ほぼ時を置くことなく〟把握していることを伝えていない。
これが下手にルージューに伝われば、そのルージューの内部で不審を抱かれることになりかねない事案である。
──が、結局ピエルジャコモは、この情報をクロエを介してアニョロ・ヴェルガウソに明かした。シラクイラのこの事態は〝これまでよりずっと逼迫の度合いを強めた〟と、そう判断したのだ。
「それで、ランプニャーニ伯は急死された…──その後には監察官の名にルーベン・ミケリーノ・マンドリーニの名が挙がった、と……」
クロエは商館の様式に則った報告書から目線を上げると、アニョロを向いて肯いて返した。アニョロは軽く溜息を吐いて、それから吐き捨てるように言った。
「──選りにも選ってルーベン・ミケリーノか……。ロルバッハにとって『マンドリーニ』とはつくづく〝鬼門〟だな…、よくも祟ってくれる……」
そんなアニョロに、少しクロエが怪訝となった。
ルーベン・ミケリーノの名は、昨年のアロイジウス卿の姉君に対する理不尽極まる不快な話──姉ユリアを側女に差し出せ、と迫ったこと──の中で聞いてはいたものの、クロエにとっては〝その程度の人物〟でしかない男の名であった。
そんな男に対するアニョロのこの反応は、たとえ親友二人に無礼であり、貴族として醜悪な男であったとしても、少々度が過ぎるものに映ったのだった。
しかし、2つの点でクロエは、ルーベン・ミケリーノの名を見誤っていた。
1つは、ルーベン・ミケリーノが現在の
──自身、西方に在ってその家勢は公爵家をも
いま1つはルーベン・ミケリーノ個人の才覚についてである。
確かにルーベン・ミケリーノという人間は宮廷人としては〝下らぬ男〟でしかなかったが、こと〝軍事に関して〟は決して無能ではなく、むしろ稀有な才を有していた。
つまりルーベン・ミケリーノは、非戦のための人事で選出されるような人物では決してない。
非戦派の領袖ランプニャーニ宮中伯が主導した事案でこの人選は有り得ず、しかもそのランプニャーニが急死した後の人選がこれである。アニョロならずとも主戦派の巻き返しを疑って当然であった。
その辺りのシラクイラの政情をアニョロが
アニョロは、そんな妻となる
「
「……信じます」 その言葉に何とかクロエは微笑むと、小さく肯いた。
このときのアニョロは、ランプニャーニの線で元老院を動かし非戦の流れを手繰り寄せたアロイジウス(それがエリベルトの示唆であったことをアニョロは知らない)に心の中で賛辞を送りつつも、その後に旅路に就いてしまったことでランプニャーニの死後の混乱に
まさかランプニャーニの死の真相が、アルソット大公家の姫君の〝良心の欠如〟した